息子の結婚式当日、夫から一本の電話が入った。「おい、どこにいるんだ?…
「さきさん、今日から私も同居するわ。当然、あなたに拒否権なんてないわよ。嫌なら息子と離婚していいからね」 大荷物を抱えてやってきた義母は、いきなりそう宣言した。普通なら怒り出してもおかしくない場面だったが、私は満面の笑みを浮かべて言った。 「いいんですか? ありがとうございます。では、今すぐ出ていきますね」 義母の口が半開きになり、目が丸くなった。彼女は私が涙を流して抵抗するか、せいぜい口論になる程度だと思っていたのだろう。 「お母さん、拒否権がないのはあなたの方ですよ。私が分からせてあげますね」 「ち、ちょっと待ちなさい。そんなつもりで来たんじゃないの!」 彼女は慌てて両手を振り、取り繕おうとする。私は何も答えず、クローゼットを開けてスーツケースを取り出し、衣類を詰め始めた。 「冗談よ、冗談。そんなに真に受けないでよ」 部屋の中をうろつきながら必要なものを集める私を、義母は焦った様子で追いかける。私は手を止めず、淡々と荷造りを続けた。 「何勝手なことをしてるの? あなた、本気なの?」 ようやく自分の言葉が現実になろうとしていることに気づいたのか、義母の脸色が変わる。私はスーツケースのチャックを閉めると、ようやく義母に向き直った。 「出て行けと言ったのはあなたです。私はそれに従っているだけです。あと、元々優馬さんとは離婚するつもりでした。手続きも進めていますので」 義母の表情が凍りつく。期待していた反応とあまりにも違う現実に、彼女は言葉を失ったようだ。額には薄い汗が浮かび、息が荒くなっている。 「何を言ってるの? なぜ? 優馬は何かをしたの?」 「優馬さんは浮気をしています」 「そんなはずないわ! うちの息子がそんなことするわけない!」 想定内の反応だった。息子を盲目的に信じる彼女の姿は、ある意味で哀れにさえ思える。 「証拠はありますよ。私の話、聞いてもらえますか?」 義母は言葉を失い、ソファーに腰を下ろした。私もテーブルを挟んで座り、重い口を開いた。 全ては2ヶ月前、優馬が地方への長期出張を命じられた時から始まっていた。 「なんで俺が行かなきゃならないんだよ。他の人間がいるだろう」 出発前夜、優馬は不満を口にしながらスーツケースに荷物を詰めていた。彼の長期出張が決まったのは突然だったが、会社の命令には逆らえない。新規開拓の重要なプロジェクトだという。彼の顔には疲労の色が見えた。 優馬は私の父の会社で働いている。父は「会社の将来のために、優馬君に責任ある仕事を任せてみたい」と言っていた。きっと無事に成長してほしいという願いも込められていたのだろう。 「せっかくの機会だから、頑張ってきてね」 「ああ」 そっけない返事と共に、優馬は準備を終えた。翌朝、彼を駅まで見送り、いつものように「気をつけてね」と声をかけると、彼は少し戸惑ったように見えた。 それが、普通の夫婦としての最後の朝になるとは、その時は思いもしなかった。 出張から1週間が経った頃、優馬の様子がおかしいと感じ始めた。それまで毎日のように送っていたメッセージの頻度が激減し、私が電話をかけても出ないことが増えた。既読すらつかない時もある。たまに返事が来ても、「忙しい」「後で連絡する」といった短いものばかりだった。 「忙しいんだよ。いちいち連絡できないって」 たまにかかってきても、その態度は素っ気なく、常に言い訳が続いた。彼の声にはイライラした色が混じっていた。おそらく彼は、私が疑念を抱き始めていることにも気づいていたのだろう。 それでも私は最初は「仕事が忙しいのかもしれない」と思い込もうとした。出張先での業務が大変なのだろうと自分に言い聞かせた。 しかし、あまりにも不自然な言動が続いた。電話をかけても「会議中」と切られるようになり、「週末にちょっと帰れるかも」と言っていたのに、突然「やっぱり無理」と連絡が来た。何より、彼の声に以前のような温かみが感じられなくなっていた。 「優馬、もしかして浮気してない?」 電話で切り出した私の言葉に、優馬の反応は想像以上に激しかった。一瞬の沈黙の後、彼の声が爆発した。 「なんだよ、いきなり。根拠もなく疑うのはやめてくれよ。信じられないな」 逆切れした彼は、反対に私を攻め始めた。これまでの冷たい態度とは打って変わって、声は感情的になっていた。 「お前のそういうところが本当に嫌い。いちいちしつこいんだよ。仕事で疲れて帰ってきたのに『どこに行ってたの?』『誰と会ってきたの?』って。友達と飲みに行くだけでもいちいち詮索してスマホをチェックしようとするし、息が詰まるんだよ。男にだって自由な時間が必要なんだ。そもそも俺が浮気するわけないだろ。お前みたいな優秀な妻がいるのに、そんなリスクを犯すわけないじゃないか。本当に信頼ってものがないんだな」 こんな風に責められるとは思わなかった。それに、彼が言うようないちいち詮索なんてしていない。むしろ彼の帰りが遅くても「仕事大変だったね」と労ってきたはずだ。彼の言葉は事実と違っている。まるで私が悪者であるかのように話をすり替えている。そんな彼の反応に、逆に確信に近いものを感じた。 そして数日後、彼からの荷物が届いた。 「そんなに疑うなら、これでもくれてやる。好きにしろよ」 宅配便で送られてきた封筒を開けると、そこにはサイン済みの離婚届。さらに添えられた短いメモには「これで満足か」と書かれていた。私は何も言わずに離婚届を引き出しにしまった。 この時はまだ、これが武器になるとは思わなかった。 会社で信頼している社員、加藤さんが優馬と同じ出張先にいることを思い出したのは、離婚届を受け取った翌日のことだった。加藤さんは父が信頼している部下で、私も数年前から仕事で関わることが多かった。几帳面で誠実な彼なら、状況を客観的に見てくれるだろう。 「もしもし、加藤さん。少しお話があるのですが」 「どうされましたか、さきさん?」 「実は最近、優馬の態度が冷たくて。現地で何か知っていたら教えてほしいんです」 戸惑いながらも、私は正直に話した。プライベートな相談をするのは気が引けたが、他に頼れる人がいなかった。加藤さんは少し考え込んだ後、頷いた。 「分かりました。さりげなく様子を見ておきます。何か気になることがあれば、すぐにご連絡します」 加藤さんの言葉に、わずかな希望を感じた。情報が分かれば、どう対処すべきか判断できる。真実を知りたい。それだけだった。 そして数日後、加藤さんから電話がかかってきた。予感はしていたものの、その内容は私の心に突き刺さるものだった。 … Read more