兄の借金を背負って44年間、私は休むことなく働いてきた。68歳の今、夜間清掃のシフトを半分に減らされ、家を追われ、貯金を使い果たし、ネットカフェにも泊まれず、公園のベンチに座っていた。そんな夜、15年会っていない姪から突然電話がかかってきた。「おばさん、今どこにいますか? 大丈夫ですか?」…
午前2時を過ぎたホテルの廊下で、松崎千鶴は自分の胃が鳴る音を聞いた。コンビニの割引シールが貼り替えられる時刻はとっくに過ぎている。今夜の食事はまだ口にしていなかった。 68歳。身長は150センチそこそこ。細い体だが、背筋は真っすぐで、歩くときは小走りのように俊敏だった。白髪混じりの髪をプラスチックのクリップで後ろに束ね、右手にはいつものステンレスのボトルを持っていた。中身は朝に沸かした湯だ。喉が渇いた時、胃が鳴りそうな時、彼女はそれを口に運んだ。ペットボトルの水を買う120円は、別のことに使う必要があった。 ステイイン南浦。乗り継ぎ客や夜勤明けの労働者が仮眠を取るための安宿に近いビジネスホテルだった。廊下には安い芳香剤の匂いがこびりつき、どのドアも閉まりきらないような古さだった。千鶴はここで夜間清掃員として働き始めて5年になる。一晩に担当する客室は12室から多い時で16室。1部屋に使える時間は20分が限度だった。午前1時半から始まる仕事は朝の5時まで続く。時給は1050円。交通費は支給されなかった。 彼女は黙々と廊下を歩き、扉を開けるたびに室内の空気を読んだ。403号室は枕にタバコの焦げ跡があった。407号室はシャワーブースの床に土砂のような跡があった。412号室は客がチェックアウトせずに延泊を申し込んでいた。千鶴は表情を変えなかった。手袋の中に薬品のシミが染み込んでくるのを感じながら、それでも吹き取りの手を緩めなかった。苦情を言うという発想そのものが、もう随分昔に消えていた。 千鶴に年金がほとんどないのは、彼女自身の怠慢ではなかった。20代前半から、兄の借金の後始末のために働いてきた。兄の名は松崎高尾。パチンコと競馬と消費者金融の連鎖に飲み込まれた男で、千鶴が24歳の時、彼は300万円を超える債務を残して姿をくらました。母親はすでに亡く、父親も病気がちで働けなかった。残されたのは千鶴だけだった。 彼女はファミリーレストランの厨房で働き、清掃業のパートを掛け持ちした。結婚を考えたこともあったが、その都度、相手に事情を打ち明けると連絡が途えた。30代半ばに、千鶴はこのまま1人で生きていくと決めた。国民年金を払い続けられなかった時期が何度もあった。申請はしたが、追納する余裕はなかった。気づけば40代になり、50代になり、年金の受給見込み額は最低限度を大きく下回っていた。65歳になった時、届いた通知書を見て、千鶴はしばらくの間、それを食卓に置いたまま放置した。封を開けるのに3日かかった。 兄は3年前に亡くなった。孤独死だった。千鶴が骨を拾った。それだけだった。兄が死んでも残債は消えなかった。セリアに入ってもらって圧縮した残りを、千鶴は今も毎月少しずつ返していた。 その夜、午前3時を少し回った頃、千鶴は409号室の清掃を終えてカートを廊下に引き出した。次の部屋は410号室だった。ノックをし、返事がないことを確認してからマスターキーを差し込んだ。手早く動いた。枕カバーを外し、シーツを引き剥がし、タオルを回収した。ゴミ箱は空だった。 仕事の手が止まったのは、ゴミ箱の脇に落ちていた紙を見つけた時だった。拾い上げると、コンビニのレシートだった。合計は3280円。鶏の唐揚げ、缶ビール2本、アイスクリーム、週刊誌。彼女はそれをゴミ袋に入れながら、ふと自分の今夜の食事のことを考えた。今日買ったのは、30円引きになっていたカップ麺1つとキャベツの芯の部分だった。キャベツの芯は捨てられる部分だが、薄く削って汁に入れた。 比べることに意味はなかった。比べたところで、どちらかが変わるわけではなかった。 その夜の仕事が終わったのは午前5時を少し過ぎた頃だった。更衣室は地下1階の薄暗い一角にあった。木製のロッカーが6つ並び、うち2つは鍵が壊れていた。千鶴は作業着を脱いで私服に着替えながらノートを取り出した。今月の支出を確認する。 家賃3万8000円、電気代4200円、水道代1800円、携帯電話の基本料金1600円。兄の残債の分割払いが8000円。それに食費。今月の食費は大体6000円前後に収まる予定だった。今月の収入は、夜間清掃で月22日勤務。計算すると8万990円。ギリギリだった。貯金はなし。医療費はなし。それでもギリギリだった。数字を確認してノートを閉じた。バランスは取れている。崩れてはいない。それだけで今は十分だった。 翌週の月曜日の夕方、ホテルのオーナーが変わった。千鶴は知らなかった。パートの清掃員には事前に何の通知もなかった。ただ、いつもシフト表が貼り出される掲示板に、その日は貼られていなかった。代わりに、自分のロッカーの扉に小さなメモが挟まれていた。 「明日の昼12時に事務所にお越しください。新しい運営責任者が話があります」 差出人の名前はなかった。 翌日の昼、千鶴は事務所を訪れた。中に入ると、30代半ばほどの男が座っていた。名前は吉村啓吾と言った。黒いYシャツにダークグレーのジャケット。髪はワックスで固めてあった。 「松崎千鶴と申します。清掃のパートで働かせていただいております」 吉村は千鶴の顔を見た。それから書類に視線を落とした。挨拶は返さなかった。少しの間沈黙があった。 「松崎さん、今月から夜間清掃のシフトを半分に減らします。週4日から週2日になります。よろしいですか?」 千鶴はすぐには言葉が出なかった。 「半分ですか」 「コスト削減です。夜間は学生アルバイトを入れます。安くつくので」 「週2日ですと、家賃の支払いが難しくなります。せめて週3日、いえ、今まで通りの週4日がどうか続けていただけないでしょうか」 吉村は少しの間、千鶴を見ていた。それから椅子を引いて立ち上がり、デスクの上にあった1枚の紙を手に取った。 「これが新しいシフト表です。来週から適用です。質問はそれだけですか?」 千鶴は一歩前に出た。気づいた時には、吉村のジャケットの袖に指先が触れていた。握ったというより、すがりついたという言葉の方が近かった。 「お願いします。私にはここの仕事しかないんです。週4日だけでも続けさせてください。どんな仕事でもします。思い荷物だって運びます。廊下の磨き直しでも、排水溝の清掃でも、何でもします」 吉村は目を細めた。彼は千鶴の手を掴んで軽く払いのけた。強引ではなく、何かの虫を払うような、そういう動作だった。それから、デスクの上のシフト表を取って、千鶴の足元に落とした。紙が滑って、スニーカーのつま先に当たった。 「拾ってください。これが今月からのルールです」 千鶴はかがんでシフト表を拾い上げた。吉村はすでに椅子に戻っていた。千鶴のことをもう見ていなかった。 千鶴は事務所を出た。更衣室のロッカーの前でノートを取り出し、シフト表を見ながら来月の収入を書き込んだ。3万6750円。それから支出の欄を見た。家賃、光熱費、残債。赤字だった。ノートのページを送って貯金の欄を確認した。14万3000円。それで乗り切ることはできる。しかし、何ヶ月も持たない。3ヶ月か4ヶ月か。何かが変わらなければ、その先はなかった。 長い時間をかけて維持してきたあのギリギリの均衡が、今夜初めて崩れた。 翌朝、千鶴はノートの余白に「日中の仕事を探す」と書いた。その日から、千鶴の生活に昼間のルーティンが加わった。夜間の仕事が終わり、朝5時に帰宅し、3時間ほど仮眠を取る。8時半に起き上がり、着替えて外に出る。以前は仕事のない昼間を休息のためにアパートで過ごしていたが、今は歩き回る時間に変わった。 最初の週はハローワークに通った。シニア歓迎の求人を探して電話をかけた。携帯電話の通話料を節約するため、公衆電話を使った。10円玉を握って電話ボックスに入るたびに、手が少し緊張した。 一軒目は駅から2駅先のスーパーだった。品出しのパートで週5日、時給は980円。電話口の担当者は最初、愛想よく話を聞いてくれた。「何歳ですか」と聞かれて千鶴が68歳と答えると、少しの間があった。「では履歴書を送っていただいて、こちらから連絡します」。連絡は来なかった。 二件目は弁当の仕分け工場だった。担当者は年齢を聞いてすぐに、「申し訳ありませんが、今回は別の方に決まりました」と言った。募集開始から2日しか経っていなかった。 三件目はマンションの管理員補助だった。履歴書を郵送した。1週間後、「今回は採用を見送らせていただきます」という返信が来た。千鶴は断られるたびに表情を変えなかった。少なくとも人前では。 二周目に入ると、千鶴は歩く範囲を広げた。電車賃がかかるなら歩く。片道4kmなら歩ける。片道6kmも慣れれば歩けた。スニーカーの底が薄くなってきていることに気づいたが、まだ履き続けた。そこに穴が開いたら買い換える。それまでは大丈夫だ。 三周目に入った時、ホテルの夜間勤務の帰りに、千鶴はめまいを感じた。廊下を歩いていて、一瞬足元が揺れるような感覚があった。しかしすぐに立ち直り、更衣室に向かった。疲れているだけだと思った。仮眠が足りていない。それだけだ。 アパートに帰って横になろうとした時、大家の北沢から封筒が郵便受けに入っていることに気づいた。開けると、「家賃改定のお知らせ」と書いてあった。来月から家賃が4万3000円に値上がりするという内容だった。 千鶴は封筒をテーブルに置いた。立ったまま、しばらくそこを見ていた。4万3000円。今の収入では、家賃だけで消えていく。大家のところに行って話し合いをしようとしたが、北沢は「書面の通りです。交渉はできません」とだけ言って扉を閉めた。 それから1週間後の夜明け前、千鶴は自分がこのアパートに住み続けることはできないと分かった。計算は何度しても同じだった。値上がりした家賃と現在の収入では、3ヶ月以内に貯金が尽きる。 千鶴はアパートに戻ってから、ノートを開いた。新しいページを使って、荷物の一覧を書き出した。必要なもの、不要なもの、捨てていいもの。衣類は季節を除いて最小限に絞った。食器は1枚、茶碗1つ、鍋1つ。元々物が少ない暮らしだった。スーツケース1つとトートバッグ1つに収まるだけの物を持って出る。引っ越しはかけられない。業者は使えない。 アパートを出たのは、梅雨入り前の蒸し暑い火曜日の朝だった。千鶴はキャスター付きの小さなスーツケースを引いて階段を降りた。スーツケースは20年以上前に買ったもので、ファスナーの一部がもう動かなかった。ガムテープで補強して持ってきた。 駅前のロッカーに荷物を預けて、千鶴はその日の昼間を過ごす場所を探した。図書館に行った。涼しく座れてお金がかからない。求人情報のコーナーに座って、新しいチラシを手に取った。読みながら必要な部分を小さなメモ帳に書き移した。コピーを取ると10円かかる。書き移せば0円だった。 夜はネットカフェに泊まった。ナイトパックで1300円。千鶴は財布から1300円を出して、1番小さなブースを選んだ。ブースの中は、大人1人がやっと座れる程度の広さだった。千鶴はスーツケースをチェアの脇に立てて、コートを体にかけて目を閉じた。こうした夜が1日、2日と続いた。 ネットカフェで夜を過ごし、朝に出てコインロッカーで荷物を持ち出し、図書館で時間を潰し、求人に電話をかけ、断られ、また夜になる。食費は1日300円を上限にした。コンビニの割引のおにぎりと、スーパーの閉店間際の値引き品。それで1日をつないだ。 10日が経った頃、千鶴はネットカフェのパソコンで求人サイトを開いた。検索窓に「清掃パート 65歳以上 即日」と入力した。その中の一件が目を引いた。 「物流施設の軽作業スタッフ募集 65歳以上歓迎 体力に自信のある方 日払いのみ 即採用あり」 … Read more