「先生、あなたの娘さん、どこかで見たと思ったら、あの時の玲子先生の目です」長谷川看護師の言葉に、私は壁に手をついたまま動けなかった。15年前、研究データの最後のページを切り取り、私の人生ごと消えた婚約者、霧島玲子。憎しみを抱えて地方の病院に逃げ込んだ私は、まさか彼女が今、手術のための特別チームとして戻ってくるとは思わなかったしそして、14歳の娘、沙紀が、まるで私の目を見るようにじっと私を見上…

窓の外では小雨が降っている。午前1時を少し過ぎたところだ。今日は3件の手術を終えたばかり。長谷川看護師が苦笑いしながら、湯気の立つお茶を置いてくれた。「先生、少しお休みになってください」私の名前は岡本ハト。43歳。地方都市の総合病院で心臓外科を担当している。かつては大学病院で将来を約束された男だった。だが、それは15年前の話だ。今は地域医療がすべて。町の人々の命を預かっている。机の引き出しを開けたのは、ほんの気まぐれだった。古いペンを探すつもりだけだった。指が、奥にしまわれた古いノートに触れて止まった。決して忘れていたわけじゃない。表紙の角は擦り切れていた。「寝床術研究記録」と、自分の筆跡で書かれている。ページをめくると、あの日の興奮が紙の上に残っている。そして最後のページで、息を呑んだ。そこだけが切り取られていた。論理的で、不合理な、逃げ方だった。15年経っても、切り口の残りがまだ私を責めている気がした。「まだ起きていらっしゃいますか、先生?」長谷川がドアの隙間から顔を覗かせた。ノートを閉じた。「ああ、古い物の整理をしてただけだ。もうすぐ休むよ」「無理なさらないでくださいね。先生が倒れたら、この病院が回らなくなりますから」ドアが閉まった。ノートを引き出しの奥に押し込んだ。「今さら、あの女を思い出すことに何の意味がある」そう呟いて、電気を消した。それでも、15年前のあの女の後ろ姿が、瞼の裏に浮かんだ。玲子。霧島玲子。かつての婚約者。私の全てを持ち去り、消えた女。15年前、玲子と私は、東京の大学病院で心臓外科チームの一員として、同じ研究テーマに取り組んでいた。全患者のための新しい寝床術。当時、まだ世界中のどこにも完成されていない技術だった。実験室で、玲子がデータを覗き込んでいた。「このカーブの取り方、もう一度シミュレーションしたいんだけど」「いいよ。一晩かかるけど」「いつものことね」悪戯っぽく微笑んで、彼女はそう言った。私たちが一緒に辿り着いた結論は、世界の医療を変える可能性を秘めていた。学会発表は3ヶ月後と決まっていた。私たちは婚約していた。すでに両家の挨拶も済ませ、結婚式場も予約してあった。「純粋無垢」という言葉が、これほど似合う二人はいなかった。同僚たちは私たちを天才カップルと囃し立てた。鈴木教授も微笑みながら、私たちの研究はこの教室の誇りだと言って、肩を叩いてくれた。あの時の笑顔の裏に何があったのか、当時の私には知る由もなかった。発表の2週間前、玲子はいつもの時間になっても実験室に現れなかった。電話も繋がらない。アパートはもぬけの殻だった。机の上から、一緒に作り上げた研究データのコピーが全て消えていた。一緒に書き綴ったノートの最後のページも、切り取られていた。そして1週間後、別の大学から臨時ニュースが飛び込んできた。霧島玲子氏の新技術の発表。私の名前はどこにもなかった。共同研究者の欄にも、謝辞の欄にも。鈴木教授に詰め寄った。「岡本くん、何か勘違いをしているようだね。霧島さんが主たる研究者だ。君は、ただの助手だった」その言葉で、全てが終わった。ノートとデータの大半は、玲子の筆跡で書かれていた。私が共同研究者だという証拠は、何ひとつ残っていなかった。他の科では、私は妬みから玲子を訴えた男になった。半年後、私は大学病院を辞めた。地方の病院へ逃げ込んだ。彼女の行方は、誰も知らなかった।学会に姿を現わすことも、二度となかった。残ったのは、最後のページが切り取られたノート一枚だけだった。あの朝、心臓発作の患者の処置を終えると、長谷川が走ってきた。「救急からです。教授。正志・原田さん、60歳です。心臓が限界のようです。画像はもうモニターに出ています」その人物のカルテに、大学病院の事務局に勤めていた経歴が記されていた。聞き覚えのある名前だった。原田。15年前、あの混乱の日々に、病院の廊下で何度かすれ違った事務職員だと思った。その男が、ICUのベッドに横たわっていた。顔色は青白いが、目は妙に生気があった。私の顔を見るなり、原田はかすかに微笑んだように見えた。「岡本先生ですか?人生とは分からないものですね。こんな形で再会するとは」「しばらくぶりです」「今は、治療に専念してください。後で、いくらでもお話を伺いますから」原田の心臓の状態は、想像以上に悪かった。通常の手術では助けられない。だが、ある特殊な術式を組み合わせれば、わずかな可能性があった。私の頭に浮かんだのは、15年前に完成する一歩手前で途切れた、あの寝床術だった。その夜、緊急の症例検討会議が開かれた。病院の空気は、異様に張り詰めていた。「この厚労省の推奨症例は、うちだけでは手に負えません。県の心血管センターから、特別チームが派遣されます」「担当者は、明日こちらに到着します」「誰ですか?」「国内の心臓外科からです。岡本先生もご存知の名前だと思いますよ」「霧島玲子先生です」部屋の空気が、急に遠くなった。ペンを握る指が、わずかに震えていた。翌朝、彼女はロビーに現れた。黒いコートに白いストール。髪は、15年前と変わらず、きっちりと結い上げられていた。だが、目の周りには深い疲労の影があった。「岡本先生、本日はお時間をいただきありがとうございます」それは形式的な挨拶だった。「患者さんは、原田さんですね。状態は重篤ですが、我々にできる限りのことはいたします」そう言うだけで、喉の奥が焼けるように熱くなった。その時、玲子の後ろから、制服姿の少女がためらいながら現れた。中学生だろうか。目が、今にも張り裂けそうだった。「お母さん、待合室にいるね」「ええ、すぐに済むわ」「お子さんですか?」「ええ、娘の沙紀です。挨拶なさい」「霧島沙紀です。14歳です。はじめまして」沙紀は私の顔をじっと見上げた。その目は、何かを求めるように私を見ていた。私は本能的に視線を逸らした。長谷川が、玲子と私を何度も見比べていた。何かを感づいたような表情だった。私は咳払いをして、話を仕事に戻した。「では、手術の打ち合わせを10時から始めます。長谷川さん、会議室の準備をお願いします」「はい」廊下を歩きながら、私は自分に言い聞かせていた。「これは仕事だ。ただの仕事だ。15年前の話は、もう終わったんだ」それなのに、引き出しの奥に押し込んだあのノートが、頭から離れなかった。最後のページは、切り取られていた。確かに玲子が切り取ったのだ。ならば、なぜ今になって、彼女は再びここに現れたのか?窓の外では、昨夜の雨が上がり、かすかな陽の光が差し始めていた。打ち合わせは、驚くほど静かに進んだ。玲子は淡々と画像データを説明した。余計な感情を、声に混ぜようとはしなかった。私は書類の束に目を落としたままだった。顔を上げれば、彼女の目と合ってしまうと思ったからだ。それは御免だったので、ただペン先だけを追っていた。だが、彼女の声は聞こえてくる。「術式の組み合わせについて、岡本先生のご意見も伺いたいのですが」「原田さんの覚醒後の状態は、通常の再建では持ちこたえられないでしょう」「では、もう一度シミュレーションをやり直します」「明日の朝までに、提案書を提出します」「ありがとうございます」それだけが、私たちの全ての会話だった。あの日から、玲子と私は、毎日同じテーブルに座った。朝の回診、午後の画像解析、夕方の省令の確認。気が付けば、15年の空白などなかったかのように、私たちの手は同じ設計図の上を動いていた。私たちはお互いにほとんど口を利かなかったが、術式の選び方、数字の読み方は、不気味なほど一致していた。沙紀は、毎日学校帰りに病院に立ち寄った。待合室で本を読みながら、母の仕事が終わるのを待っていた。私が声をかけると、彼女は丁寧に会釈をした。中学生にしては、しっかりした娘だった。ある夕方、飲料の自動販売機の前で、沙紀と二人きりになった。「先生、昔、私のお母さんと知り合いだったんですよね?」「お母さんが先生の話をする時、少し顔つきが変わります」「ああ、そうか?昔、同じ病院で働いていました」「難しい研究を一緒にやっていました」「先生、優しい声をなさいますね」「何だか、お母さんと似ている気がします」何と答えたら良かったのだろう。昨日聞いたあの言葉が、喉から出てくることはなかった。長谷川が遠くから、私たちの様子を眺めていた。「先生、あの娘さんの目は、どなたかに似ていますね」「気のせいですよ」「そうかもしれませんね」そう言いながらも、長谷川の目は確信に満ちていた。原田の容態は、薬でどうにか持ちこたえている状態だった。だが、時間は限られていた。手術までの数日が、私たち全員にとっての正念場だった。あの夜、私は一人で原田の病室を訪ねた。 原田はベッドの上で体を起こし、私の顔をじっと見上げた。「岡本先生、ひとつお聞きしてもいいですか?」「ええ、何でしょう」「先生は、15年前のあの話を、ご自身で調べたことはありますか?」「今さら調べて、何になるんです?もう終わった話です」「まだ、終わってませんよ」「少なくとも、私の心の中では」私は思わず、ベッドの脇に腰を下ろした。原田は、途切れ途切れに話し始めた。「あの時、他学部から流れていた金に、おかしな点がありました」「事務方の一人として、私はそれを目にしていました」「研究費という名目で動いていた金が、ある教授の口座に流れ込んでいたんです」「誰のことですか?」「鈴木一成教授です」その名を聞いた瞬間、私は心臓が止まるかと思った。私の人生を暗転に突き落とした男だった。「先生、もし調べるなら、今ですよ」「私の心臓は、そう長くはもちません」「聞けるうちに、聞いておいてください」「わかりました」「少し時間をください」病室を出ると、廊下の突き当たりに玲子が立っていた。窓の外を見つめている。「玲子さん、少しお話しできませんか?」「手術のことでしたら」「いいえ、15年前の話です」彼女の表情が、一瞬で険しくなった。「岡本先生、私が今、考えたいのは、患者さんのことだけです」「他のことは、ご遠慮ください」「あなたは、今も逃げているんですか?」「逃げてなんかいません」「私は、話せないんです」「それを、信じてください」そう言い残して、彼女は私の脇をすり抜けて行った。あの夜、私はもう一度、原田の病室を訪ねた。今度は、最初から全てを聞く覚悟で。「鈴木教授は、当初から、岡本先生の研究の価値に目をつけていました」「学会発表の三ヶ月前”“教授は霧島先生を、教授室に呼びました「そこで、彼女にこう命じたんです」「お前の名前だけで、発表させろ」「そうしなければ、岡本の人生を潰すぞ」と私は息を呑んだ。原田の声は、静かだった。だが、その一言一言が、私の胸の奥深くに突き刺さった。「霧島先生は、岡本先生を守るために、自ら悪者になる道を選んだんです」「岡本先生に迷惑がかからないよう、データと共に姿を消した」「なぜ、あの時、教えてくれなかったんだ?」「そうしてくれていれば、私は教授に立ち向かえたのに」「そうしていれば、霧島先生の決意が、全て無駄になっていました」頭の中で、何かが大きな音を立てて崩れ落ちた。15年間、玲子に向けてきた憎悪が。私は廊下へ出て、壁に手をついた。向かいの廊下を、沙紀が長谷川と並んで歩いていた。長谷川が何か優しく話しかけると、沙紀は柔らかく微笑んで、頷いた。その横顔を見て、私は立ちすくんだ。14歳の少女が消えたのは、15年前。指を折って数えた。沙紀が生まれたのは、玲子が姿を消してから、半年も経たないうちのはずだ。「まさか」という声と「やはり」という声が、同時に胸に込み上げてきた。私は壁に手をついたまま、しばらく動けなかった。「先生、顔色が青いですよ」戻ってきた長谷川が、心配そうに駆け寄ってきた。「少しお休みになってください」「長谷川さん、彼女が、自分の父親の話をしたことはありますか?」「いいえ、一度も」「ただ、お母さんには大切な人がいるって、それだけは言っていました」長谷川は、何かを察したように、口を噤んだ。私はその場で、深く息を吐いた。窓の外には、かすかな月が昇っていたし明日から、原田の手術の検討が始まる。私は再び、玲子と共にメスを持つことになる。それまでに、確かめなければならないことが、あまりにも多すぎた。だが、時間は残されていなかった。翌朝、私はいつもより早く病院に着いた。原田の病室の前で、深呼吸をした。昨夜、私は決心をしていた。全てを聞く。もう逃げないし、全てを聞く。「原田さん、お願いします」「全部、聞かせてください」原田は静かに目を閉じ、15年前のことを語り始めた。「鈴木教授は、誰よりも早く、あの研究の価値に気づいていました」「学会発表の三ヶ月前」「教授は霧島先生を、教授室に呼びました」「そこで、こう命じたんです」「お前の名前だけで、発表させろ」「そうしなければ、岡本の人生を潰すぞ」と「教授は、その場で拒否したようです」「岡本先生との共同研究だと言って」「すると教授は、今度は岡本先生の医師免許の話を持ち出したそうです」「私の免許を、人質に取ったというのか?」「ええ、玲子先生はそう言っていました」「あの方は、医学界にそれだけの影響力があったんです」「一晩考えた末、玲子先生は、ある結論に達しました」「自分が、研究データと共に姿を消す」「表向きは、自分が単独の発表者だったことにする」「そうすれば、私に累が及ぶことはない」「私は、裏切られた共同研究者として、どこかで自分の道を続けていける」「そして、もう一つ」「霧島先生が、どうしても姿を消さなければならなかった理由がありました」「それは、あの時、霧島先生はすでに、岡本先生の子を身ごもっていたからです」時が止まったかと思った。「このことは、私にだけ打ち明けてくれました」「この子を、巻き込みたくなかった」「ハトさんに、私のせいで未來を諦めてほしくなかった」「今でも、15年前のあの目の表情を、忘れることができません」私は両手で顔を覆った。原田はそれ以上何も言わなかったしただ、痩せた手で、私の腕をそっと撫でてくれた。廊下に出ると、長谷川が立っていたし何も尋ねずに、彼女は私にハンカチを差し出した。「先生、少し顔を洗ってきてください」「はい」「ありがとうございます」「あの時、私、あの娘さんにお会いした時から、なぜか胸が騒いでいたんです」「今なら、わかる気がします」長谷川の目に、涙が滲んでいたし「あの日の午後、玲子が、私の研究室のドアをノックした」「彼女の手には、古い封筒があった」「岡本先生、これを、あなたにお渡ししたくて」「どうぞお入りください」彼女は机の上に封筒を置いた出てきたのは、古いノートの一枚だったし震える指で、それを広げたしそこに書かれていたのは、研究データではなかったし玲子の筆跡で書かれた、一通の手紙だったし「ハトさんへ」「私を、許してください」「あなたを守るために、私が考えついた、唯一の方法がこれでした」「私は、あなたを裏切ってなんかいません」「あなたの未來を、消したくなかった」「いつか、きっと、いつか」「すべてを話せる日が来ると思います」「その日まで、どうか、メスを置かないでください」「あなたの手は、多くの人の命を救う手です」涙が、溢れ出したし顔を上げると、玲子が窓の外を見ながら立っていたし彼女の背中が、かすかに震えていたし「なぜ、今まで黙っていたんだ?」「あなたが、田舎で人として立ち直ったと聞いて、それで十分だと思っていました」「今さら姿を現して、あなたの人生を亂す資格は、私にはありません」「あの娘は、あなたの娘です」その言葉を、私はずっと待っていた気がしたし玲子は、ゆっくりと振り返ったしその目は、赤く腫れていたし「ずっと、いつか父に会いたいと思っていました」「でも、その勇気が出ませんでした」「ハトさんが、私を許してくれるとは、思えませんでしたから」「私の方こそ、間違っていました」「あなたを、15年間恨んでいました」「あなたを、信じることができませんでした」「ごめんなさい」玲子の頬を、一粒の涙が伝ったしもう、言葉は必要なかったし原田の手術の日が来たし朝の空は、澄み渡っていたし手術室に入る前、廊下で、玲子と私は目を合わせたし私たちは何も言わなかったしただ、一度だけ、深く頷き合ったし手術は、六時間に及んだし15年前に、あと一歩で完成するはずだった寝床術し玲子と私は、15年の月日などなかったかのように、手を動かしたし全ては、あの実験室の夜の続きだったし心臓が再び動き出した瞬間、玲子はマスクの内側で、かすかに息を漏らしたし無影灯の下で、二つの影が、一つに重なったし原田は、無事にICUへ運ばれたし命は、救われたし退院の日、原田は車椅子から私たちを見上げ、かすかに微笑んだし「先生方、15年越しの手術を、目撃することができました」「どうやら、私の心臓も、もう少しだけ働いてくれそうです」「原田さん、あなたが話してくれなければ、私は何も知らないままでした」「本当に、ありがとうございました」「いいえ、これで、あの世で、心置きなく腹を割って話せます」沙紀は、入口のロビーで待っていたし私は彼女の前で、ゆっくりと膝を折ったし目線を合わせたし「沙紀さん、今までお父さんに会えなくて、寂しかったでしょう」「本当に、ごめんなさい」「これからは、少しずつでいいから」「私のことを、知ってもらえますか?」「先生が、お父さんですか?」「ああ、そうだ」「やっと、14年の時を経て、向き合えるようになった父です」沙紀の目に、涙が溢れ出したし「お父さん」長谷川が、口元を手で覆ったし玲子は、少し離れた場所から、静かに私たちを見つめていたし夕方、私は玲子の隣に立って、病院の屋上にいたし夕日が、町の屋根を赤く染めていたし「玲子さん」「失った時間は、戻せない」「だが、これからは、家族として、一緒に歩いていけないだろうか?」「本当に、いいんですか?」「私の方こそ、お願いしたいんだ」「もう一度、家族にさせてほしい」玲子は、何も言わずに、静かに頷いたし風が、彼女の髪を揺らした。

4 September 2026

「もう二度と、この家に来ないでください」。婚約者の両親が、初めての挨拶に訪れた私を笑い者にした瞬間、彼は一言も助けませんでした。貧乏な農家の娘である私を、上から下まで見て「お似合いですね」と嘲笑う。その日、私は祖父が遺してくれたものを見つけました。そして、翌朝、彼らの人生が一変することを私は知っていました。彼らが私を辱めた代償を、私はきちんと払わせるつもりです――。これが、私の静かな復讐です…

すみ子の視線が、玄関に立つ蒼の全身をゆっくりと上から下へ這った。口元が静かに歪む。 「貧乏農家の娘に、うちの息子はやらんよ」 広間に笑声が響いた。 「農家の方が、銀行家の嫁ですって?」 蒼は立ったまま、その言葉を受け止めた。隣で婚約者のケントは、ただ俯いていた。一度も蒼を見なかった。使用人が静かに玄関へ促し、蒼は踵を返した。背後でまた笑声が聞こえた。 この時、遠島家の誰一人として知らなかった。目の前の農家の娘が何を持っているかを。そして翌朝、自分たちの身に何が起きるかを。 その夜、蒼は実家の農機具小屋に座っていた。土と草の匂いが満ちている。遠島の言葉が耳に残っていた。来る直前、ケントは言ってくれた。「大丈夫、ちゃんと話すから」。その言葉を信じて、古着アプリで買った白いワンピースに何度もアイロンをかけた。靴を磨き、髪をまとめた。それが蒼にできる精一杯だった。 蒼は幼い頃に両親を亡くしていた。父は農作業中の事故で、母はその後を追うように。育ててくれたのは祖父の安藤次郎だけだった。小学校の運動会、周りの子の親が並ぶ中、蒼の隣は誰もいなかった。泣かなかった。代わりに遠くの山を見ていた。中学では服装を笑われた。「山田っていつも同じ服着てるよね」。言い返す代わりに、放課後は畑を手伝い、炊事をし、洗濯物を取り込んだ。それでも蒼は農業を好きになった。祖父が言った。「土は嘘をつかない」。その言葉は背骨のようだった。 ケントと出会ったのは3年前、都内の農業展示会。パンフレットを落とした蒼に、拾ってくれたのがケントだった。「農家をやってるんですか? すごいですね」。すごいと言われたのは初めてだった。1年間、ケントは蒼の仕事を一度も馬鹿にしなかった。その結果があの笑声と「二度と来るな」という言葉だった。 蒼は古びた木製トランクの蓋を開けた。祖父が「大切なものが入っている」と言っていたものだ。中には一通の手紙と、分厚い書類の束があった。書類の表紙には「土地所有書 安藤次郎名義」とあり、弁護士の連絡先が記されていた。蒼は手紙を開いた。 「蒼がこれを読む時は、きっと一人で困っている時だろう。この土地の権利書を大切にしなさい。その土地に何が立っているか、田中先生に聞いてみなさい。そして正しく使うことを信じている。蒼、丈夫に生きてくれ」 祖父は知っていたのだ。いつか蒼がこの力を必要とする日が来ることを。翌朝、蒼は田中弁護士の事務所を訪れた。白髪の田中は言った。「次郎さんから話は聞いていましたよ。いつか来ると、ずっと思っていました」 田中は書類を並べた。遠島銀行の本店と支店は、全て安藤次郎の土地の上に立っていた。地上権の更新期限は来年3月で、更新には土地所有者の承認が必要。「土地の評価額は300億円以上です」。さらに蒼が預金額を尋ねると、田中はファイルを開いた。「現在、遠島銀行に6000億円です」 静寂が落ちた。蒼はゆっくり目を閉じた。破れた作業着を縫い直し、外食を好まず、「贅沢はいらん」が口癖だった祖父が6000億円を持っていた。全てを蒼のために。「全部、動かします」。田中は確認した。「本気ですか? それをやれば、遠島銀行は終わります」。蒼の声は静かだった。「知っています」 田中は深く頷いた。「次郎さんは言っていました。蒼は必ず正しい使い方をする、と」。 翌朝、蒼と田中は遠島銀行本店の正面玄関をくぐった。昨日と変わらない地味なジャケット姿。しかしその目には静かな光があった。窓口の担当者が書類を見て動きを止めた。支店長が駆けつけ、顔が白くなった。10分後、遠島本人がスーツ姿で現れた。顔には普段の威圧感がない。「なぜここにいる?」 蒼は静かに答えた。「昨日お会いしましたよね。覚えていませんか?」 遠島の表情が歪んだ。「待て。話し合おう。土地の件なら条件を出す。どうすればいい?」 田中が割り込んだ。「条件は決まっています。売却先との契約は成立済みです」。そこへすみ子が駆け込んできた。「あなた、どういうことなの?」 蒼の手元の書類を見て、すみ子は言葉を失った。蒼の声は冷たくなく、ただ静かだった。「山田さんで結構です」。 「金額なら倍出す。3倍でも!」 「手続きは既に始まっています。書類は法的に完全です」 遠島は窓口カウンターに手をついた。「なぜだ? なぜ農家の娘にそんな力が?」 「祖父が残してくれたからです」 午前10時17分、6000億円の移動手続きが完了した。蒼は深く一礼し、銀行を後にした。翌朝、遠島銀行に内容証明郵便が届いた。土地所有権の移転に伴う建物の撤去通告。本店だけでなく、支店の土地も全て遠島銀行が借りていたものだった。同日、格下げの速報が走り、取引先から契約見直しの連絡が次々と来た。 取締役会で、遠島は問われた。「どう責任を取られるおつもりですか?」 遠島は黙った。「辞任を表明します」。誰も止めなかった。昨日まで頭を下げていた役員が、一言でそれを終わらせた。遠島は廊下に出た。30年間、誰もが頭を下げてきた廊下を、今日初めて頭を下げて歩いた。 半年後、遠島は地方の小さな町に移り住んだ。住居は別居し、コンビニの弁当で日々を過ごした。かつて何百人もの部下を率いた男が、値引きシールを確かめながら買い物をしていた。ある朝、地元の農家に誘われた。「農業をやってみないか」。翌朝、長靴を履いて畑に出た。父を耕すのは重く、30分で腰が痛んだ。昼休み、農家がおにぎりを差し出した。「食べな。力仕事は腹が減る」。塩結びだった。何ヶ月ぶりかに「うまい」と思った。遠島はふと思った。あの農家の娘も、こういうものを食べて育ったのかもしれない。 すみ子には、社交会の主催者から電話があった。「今後、ご出席はご遠慮いただきたく」。30年かけて築いた人脈と地位が、一夜で意味を失った。豪華なコートもネックレスも押入れの奥にしまった。ある夜、すみ子は初めて泣いた。家族のためではなく、自分のために。 ケントは銀行を辞めさせられ、無職になった。婚約解消の申し出もあった。「俺は何をしてたんだ?」 誰もいない部屋で初めて声に出して言った。父の背中を追いかけてきた。逆らえなかった。その結果、大切な人を一人失った。 3ヶ月後、蒼は「安藤次郎記念農業支援基金」を設立した。近隣農家への資金支援と技術継承が主な事業だった。遠島銀行は大幅縮小したが、蒼はその記事を一度見ただけだった。ケントは農村支援を行う小さなNPOで働き始めていた。現場で農家と話すたびに蒼を思い出した。一通の手紙を出した。「謝っても意味がないことは分かっています。ただ、何をしているか知って欲しかった。それだけです」。 ある朝、蒼の玄関先にその手紙が置かれていた。蒼は台所で火をつけ、手紙を燃やした。「私の土にあの人たちの言葉はいらない」。 1年後、基金は三つの県に活動を広げていた。農業を諦めかけていた若者が支援で農地を引き継いだ。ある日、若い農家の男が聞いた。「山田さんって、すごい人なんですか?」 蒼は笑って答えた。「ただの農家ですよ」。翌年、その若い農家が育てた野菜が市場に並んだ。蒼はその野菜を手に取り、しっかりした重みを確かめた。土がちゃんと答えていた。 蒼は市場を一周し、知った顔に出会うたびに挨拶した。誰もが必死で、誰もが誠実で、誰もが土を愛していた。「安藤さんに似てきたね」「まだまだです」。それから畑へ戻った。種を蒔けば、土は必ず答えてくれる。祖父が教えてくれたことを、蒼は今日もここで続けている。

4 September 2026

「お兄様は結婚式に来ないでください。あなたみたいな中卒が来たら、恥ずかしいんですよ。」…

「お兄様は、結婚式に絶対に来ないでください。」 弟の婚約者に、あっけらかんとそう言われた。彼女は銀行役員の令嬢で、中卒で建築現場で働く俺のことを、恥ずかしいと思っているらしい。弟の幸せのためなら、どんな要求も飲むつもりだった。ただ、心の奥がえぐられるような思いだった。 「これ以上、邪魔しないでください。」 その一言で、俺は結婚式を欠席する決心をした。だが、当日、俺がいないことで結婚式は思わぬ事態に陥るのだった。 俺の名前は工藤。休日の朝、弟のゆやからの電話で目が覚めた。 「もしもし、兄さん。今日、休みだよね?」 「うん。まだ寝てた。」 寝ぼけた頭を起こしながら、洗面台に向かう。ゆやの声はどこか弾んでいた。 「俺、結婚しようと思ってる相手がいるんだ。今度、兄さんに紹介したいんだ。」 突然のことに驚き、一気に目が覚めた。同時に、成長した弟が嬉しかった。 俺とゆやは、二人で助け合いながら生きてきた。母は俺たちが幼い頃に離婚し、女手一つで働いて俺たちを養ってくれていた。父のことはあまり記憶にない。仕事で遅くなる母の代わりに、小学生だった俺が、まだ保育園に通っていたゆやの世話をよくしていた。 「お兄ちゃん、ごめんね。また仕事に行ってくるから。夕ご飯はこれをチンして、ゆやと二人で食べてね。」 「わかった。じゃあ、お布団だけ出しといて。ゆやは、ご飯の途中で眠くなっちゃうんだ。」 そうして親子で仲良く暮らしていたある日、母が突然、祖父母の家へ行くと言い出した。そして、俺たちを祖父母に預けたまま、母は二度と戻らなかった。幼いゆやは、母がいないことが心細くて、夜になるたびに泣いていた。そんな時は、絵本を読んだり、手を繋いで寝たりして気を紛らわせた。 「お母さんは、今日帰ってくる?」 そう聞かれるのがいつも辛くて、「知らない」と答えるようになったのは、いつからだっただろう。祖父母は母のしたことに怒りを感じながらも、俺たち兄弟を大切に、愛情深く育ててくれた。毎日、決まった時間に温かいご飯が用意されているだけで、俺は嬉しかったのを今でも覚えている。 もう母は帰ってこないのだと諦め始めた頃、俺は弟を守るのは自分しかいないと覚悟するようになった。ゆやが小学校に上がって、近所のいじめっ子がちょっかいを出してきた時には、祖母がいつも使っていたほうきを思いっきり振り回して追い返した。 「うわっ、こいつの兄ちゃん、やべえ。逃げろ!」 俺が空手を習いたいと言い出したのも、弟を守らなければという思いで強くなりたかったからだった。結局、田舎には俺が通えるような空手教室はなかった。その代わりと言って、祖父は休みの日に俺を釣りに連れて行ってくれた。海を前に、自分がとてもちっぽけな存在だと感じ、ゆっくり釣りを垂らしていると、いつもせわしなく動いていた心が落ち着くような気がした。俺は釣りが好きになり、祖父の釣り仲間の日野さんとも友達になった。もしも父親がいたら、これくらいの年なのかもしれないと密かに思い、会えると嬉しかった。 「エイタは、将来なりたいものとか、職業とかあるのか?」 日野さんは釣りをしながら中学生の俺に聞いた。 「うーん。俺は普通のサラリーマンになって、弟とじいちゃんばあちゃんがもっと楽に暮らせるように、お金を稼ぎたいかな。」 「お前はな、この海みたいに大きな心を持ってるから大丈夫だ。頑張りなさい。」 その時言ってくれた言葉に、俺はその後何度も助けられた。 高校生に上がってからも、お金を稼げるサラリーマンになれるよう、たくさん勉強していた。そんなある日、祖母が倒れた。祖母が入院したと同時に、今度は祖父が倒れ、祖父はそのまま亡くなってしまった。葬儀は役所の人に事情を話し、小さな葬儀を行うことができた。葬儀にも参加できなかった祖母は、元気がなかった。 「おばあちゃん、ゆっくり直して。家のことは大丈夫。ゆやも来年には中学生だよ。」 「そうだね。じゃあ、必要なことは伝えておかなくちゃね。」 そう言って祖母は、入院している間に家のことやお金のことなど、俺に詳しく教えてくれた。回復に向かっていると思った矢先、祖母の容体は急変し、息を引き取った。 俺は生活のために高校を中退して、建築現場で働くようになった。 「僕もアルバイトするよ。」 「中学生はアルバイトできないよ。勉強してな。」 「新聞配達ならできるって調べた。」 「大丈夫。ちゃんと稼いでるから、心配すんな。」 ゆやは何度も家計を助けようと申し出てくれたが、俺は言い聞かせた。 「ゆやには勉強して、いい学校に入って、大学にも行って欲しいんだ。そのためなら、どれだけ働いても苦しくないんだよ。」 それを聞いて、ゆやはようやく勉強に打ち込むようになり、名門高校へ入学し、順調に大学へと進んだ。そして今では一流企業で働いていて、結婚したい相手がいるという。兄として、本当に嬉しい限りだった。 「今度の兄さんの休みに合わせて、兄さんの社宅へ連れて行ってもいいかな?」 「ここでいいのか?わかった。片付けて待っとくよ。楽しみにしてる。」 次の休みの日、俺は緊張しつつ、ゆやの婚約者の小島まゆと対面した。初めまして。ゆやの兄の工藤です。彼女は品のある、大人しそうな女性だった。 「ゆやさんのお兄様は、建築現場で働いているんですか?大学はどちらを出ていらっしゃるんですか?」 「いや、俺は祖父や祖母が亡くなってから、ゆやの親代わりみたいなもんで、高校を中退して働き始めたんです。」 「それじゃあ、中卒ってことですか?」 「はい。元々ゆやと違って勉強も好きじゃなかったですし。その延長で同じ仕事を続けてます。」 「ゆやさんのお兄様が中卒だなんて、聞いていませんでしたわ。」 彼女は落胆した様子を隠さず、ため息をついた。俺は学歴を諦めたことを後悔していない。ただ、中卒では社会が認めてくれないというのを痛いほど経験してきただけに、ここへ来て弟に迷惑をかけてしまうかもしれないと不安がよぎった。 「私は、ゆやさんが優秀な方だから、お兄様も立派な職業についていらっしゃると勝手に思い込んでいました。でも、違うようですね。私たちの幸せを邪魔しないでくださいね。」 「そんなつもりはありません。ゆやには幸せになってもらいたいと思っています。」 そう言うと、彼女は口元を少し上げ、愛想笑いをした。顔が引きつっているのがわかった。そこへゆやが戻ってくると、彼女は再び静かになった。ゆやは、さっきの彼女の顔を知っているのだろうか。疑問に感じたが、ゆやにどう伝えたらいいかわからなかった。 それからしばらくして、正式に婚約が決まった。結婚式一週間前という頃、知らない番号からの着信があった。出てみると、まゆだった。 「もしもし。先日はどうも。小島まゆです。覚えていらっしゃいますか?」 その話し方だけで、あの日の彼女を思い出し、少し嫌な気分が蘇った。 「今日はちょっと、お兄様にお願いがあってお電話しましたの。」 「俺にできることなら、何でもどうぞ。」 「ええ、その結婚式なんですが、お兄様は欠席していただけないかしら?」 「え?ゆやの唯一の親族なのに、結婚式に行かないなんて考えられないでしょ。」 … Read more

4 September 2026

「今すぐ給料10倍にしないと、東大卒の俺ら全員やめますんで」――新入社員の二階堂が、そう言い放って辞表を机に叩きつけたのは、カンターレとの大型契約が佳境を迎えていた、まさにその日だった。47歳の俺は、Fラン出身と馬鹿にされ、給料を10倍にしろと恫喝され、SNSでパワハだと告発するとまで脅された。これだから低学歴はダメなんだよと笑う二人を、俺は静かに見つめ返した。そして、一つだけ、彼らが絶対に…

二階堂と八幡は、ノックもそこそこに社長室へ押し入ると、俺の机の前に立った。手に持った風のつまりは自標を、机の上に投げつけるようにして置いた。 「社長、いい加減にしてくださいよ。この会社に入ってもうだいぶ経つのに、俺らの給料、1円も上げないなんて、一体どういうつもりですか? 」 俺は思わず、ぽかんとしてしまった。つい先日まで、カンターレとの契約をまとめるため、社員全員で必死に働いていたところだ。その矢先に、これである。 俺の名前は飯村正義。47歳になる、ごく普通のおっさんだ。ブランドアパレルの通販会社、Mクロゼットの社長をしている。 高ナ10代の頃から洋服が好きで好きでたまらなかった。しかし当時は実店舗でしか買えず、田舎に住んでいた俺は、目当てのブランドの服を手に入れることはほとんどできなかった。その悔しさから、大学で文学を学びながらも、アパレルと通販の勉強を独学で続け、ついにMクロゼットを立ち上げた。周りからは畑違いと笑われたものだ。 立ち上げ当初は当然、誰からも相手にされなかった。だが、SNSでの地道な宣伝と、会員限定セールなどの工夫を重ね、近年は売上も右肩上がりが続いている。そして今、ヨーロッパのレトロテイストが人気のブランド、カンターレとの通信販売契約を結ぶ寸前までこぎつけていた。人気モデルが着用し、若い女性の間で爆発的な人気を誇るブランドだ。店舗販売しかしてこなかった彼らが、初めて通販に踏み切るという。その販売を任されたのが、うちの会社だった。なんとも幸運な話だと思った。 その大事な契約の担当に、俺は営業部の部長と新入社員の二階堂、八幡の計3人を選んだ。部長は大学時代からの友人で、創業時から世話になっている男だ。二階堂と八幡は、今年入社したばかりの新人で、なんと5人全員が東京大学の卒業生だった。5人は大学時代からつるんでいた仲間だという。 この二人を担当に選んだのには、理由があった。彼らに、期待をかけていることを伝えたかったのだ。入社早々、初対面の俺に対して、彼らは言い放ったものだ。 「社長、給料もっと上げてくださいよ。俺たち、東大出てんですから。新入社員だからって舐めた金額のままにするつもりなら、こっちにだって考えがありますからね」 あまりに物騒な言葉に、俺は面食らった。が、その時は、まだ若さゆえの無鉄砲さかと思ったのだ。それがあだとなった。 以来、2人は会社の誰に対しても高圧的に接するようになった。もっと厳しく叱っておくべきだったと、今でも後悔している。 だが、過ぎた過去は変えられない。だからこそ、今回の大事な商談の担当に彼らを選んだのだ。期待していると伝われば、彼らも心を入れ替えてくれるかもしれない。そう願っての人選だった。 カンターレとの正談は、概方合意までこぎつけ、最終調整を数日後に控えた、ある日のことだ。 俺が社長室でメールをチェックしていると、ドアをノックする音が響いた。返事をすると、入ってきたのは二階堂と八幡の二人。手に、また風のようなものを持っている。俺が要件を聞くと、二階堂は突然、冒頭の言葉を言い放ったのだ。 「今すぐ給料10倍にしないと、他の部署の奴らも含めて、東大卒の俺ら全員やめますんで。のつもりでいてくださいね」 俺は、なぜそんなことを言うのかと尋ねた。が、二人は、自分たちのような高学歴な人間が、今のような給料で働かされているのはおかしいと、しきりに言い立てるばかりだ。 給料というものは、学歴だけで決まるものではない。その人の能力や働きによって変動するものだ。俺はそう伝えたが、に腕押しだった。彼らには、俺の言葉など、初めから聞く気がなかった。 俺は、彼らと口をきくのがとても虚しくなった。だが、Mクロゼットの社長として、たとえどんな相手であっても、社員とは真摯に向き合わなければならない。俺は襟りを正し、もう一度詳しく話を聞こうとした。が、それは時間の無駄だった。未道はただひたすら同じことを繰り返すばかりだ。 俺は徐々に腹が立ってきた。が、ここで怒りに任せて怒鳴っては、彼らの思う壺だ。俺は静かに深呼吸し、アンガーコントロールに徹した。 すると二階堂は、ますます俺を馬鹿にし始めた。 「ところで社長って、どっかのF大学出身ですよね? そんな人がトップとか、この会社、マジで大丈夫なんですか? 」 Fランとは、偏差値の低い、いわゆる三流以下の大学のことだ।俺は思わず顔を歪めた。 確かに俺は、全国的に有名な大学の出身ではない。本当は、都内の国立有名大学が第一志望だった。高校時代、必死に勉強し、学年トップの成績を常に納めていた。あの大学の試験をパスできるだけの学力は、十分に身につけていたのだ。 だが、入試当日、俺は40度近い高熱を出してしまった。うなされながらも試験会場へ向かおうとする俺を、母が必死に止めてくれた。もしあのまま行っていたら、きっとどこかで倒れていただろう。母には今でも感謝している。 こんな風に、人にはそれぞれ様々な事情があるのだ。 それを考慮できない目の前の若者たちに、俺はすっかり失望した。給料の額と同様、学歴だって、人生を決める全てではない。さすがに苛立ち、俺は少し皮肉混じりに尋ねた。 「では、どうしてうちのような低学歴者が社長の会社に、わざわざ君たちは入社したんだ? 」 その問いかけに、二階堂は小声で「うるせえ」とつぶやき、八幡は下打ちで答えた。んて奴らだ。人として、完全に終わっている。国内トップの大学で何を学ぼうと、この人間性では、拉チが開かない。 俺は、はっきりと告げた。現時点で給料を上げることはできない。まして10倍など、到底無理だとな。 二階堂は大げさにため息をつき、二人は来客用のソファーに、だらしなくどさっと腰を下ろした。 「社長、本当にいいんですね? こんな有能な人材を、一気に5人も失うことになるのに」「これだから、ちゃんとした大学出てないやつはダメなんだよ」 八幡は、それを聞いてケタケタと、君の悪い笑い声をあげている。 そして二階堂は、とどめの一言を放った。 「カンターレとの契約も、きっと破断になるでしょうね」 どういうことかと尋ねると、二階堂は言った。中年の部長一人では、今乗りに乗っている若者向けのブランドとの契約を、強引に持っていくことなどできるわけがない。それに、部長も大した大学を出ていないくせに、俺たちに偉そうに命令するのが許せない、とな。 そして部長を、散々バカにするようなひどい言葉を、次々とマシンガンのように放ち始めた。 の男を、長年仕事を共にし、友人でもある男を、ここまで貶されて、俺はとうとう我慢の限界を迎えた。俺だけを攻撃するのなら、まだ我慢できただろう。しかし、部長を馬鹿にするのだけは、絶対に許せない。 俺は大きく息を吐き、二階堂と八幡をじっと見つめた。すると二階堂は、ニヤニヤしながら言った。 「何ですか? 何か文句でも? そんな目で新入社員を威圧するなんて、これはパワハですよ。SNSで告発しちゃおっかな」 カンターレとの正談が佳境を迎えている今、SNSでの炎上騒ぎは絶対に避けたい。俺は仕方なく、目をそらして俯いた。 二階堂はそんな俺の様子を面白そうに眺めながら、もう一度、給料を10倍にしないと全員で辞めると繰り返している。 その様子に、俺は思わずふっと笑った。その瞬間、二階堂と八幡が、驚きのあまり少し後ずさったのが分かった。 机の上に投げ出されたままの自標を手に取り、俺は言った。 「どうぞどうぞ。まあ、そんなことだろうと思ってましたけどね」 俺の言葉を聞いた二人は、ぎょっとしたように互いに顔を見合わせている。の動揺を悟られまいと、二階堂はからかうような言葉で挑発した。 「あれ? どうしました? 社長、頭大丈夫ですか? … Read more

4 September 2026

Na tarde do meu aniversário, caí no jardim e disse que não sentia as pernas. O meu pai respondeu-me: «Levanta-te e para de fazer cena.» A minha mãe queixou-se de que estávamos todos à espera do…

A festa de aniversário já tinha caído naquele ritmo habitual de risos forçados e pequenas competições no jardim. Da rua, nada parecia fora do normal. Os vizinhos ouviam, de vez em quando, gritos de alegria, o chiado do grelhador e música a sair por uma janela aberta. Depois, um simples momento de descuido dividiu a … Read more

4 September 2026

兄から「お前はもう家族じゃない。2度と実家にまたげると思うなよ」と言われた時、なぜか私はほっとしていた。31歳の独身男の私と妹は、兄夫婦のリフォーム費用2000万円の3分の1ずつを払えと言われた。貯金100万円しかない私に、兄嫁は「だから結婚できないのね」と笑った。でも、元暴走族の義弟が見積もり書を見て一言。「これ、かなりぼったくってるぜ」。私は新しい見積もりを持って実家に行ったが、兄たちは…

「お前たち、もうこの家に邪魔だ。出て行け」 兄のすぐるがそう言った時、僕はただ俯いていることしかできなかった。31歳、独身。上に5歳上の兄すぐる、下に2歳下の妹ゆみ。兄は親の期待を一心に背負って生まれた長男で、名前からして特別だった。しかしそのせいでわがままに育ち、今では完全な俺様男。兄嫁も似たようなタイプだった。 僕と妹はその他大勢扱い。特に僕は成績も良くなく、容姿も普通以下で気が弱かった。兄や母にいつも馬鹿にされ、兄嫁からも下に見られていた。結婚した兄夫婦が実家に同居することになった時、すぐるが僕と妹を追い出したのだ。 妹は彼氏と同棲することになって何とかやっていけた。しかし僕は安い給料から生活費全てを自分で出さなければならず、かなり焦った。実家時代は月3万入れていれば良かったのに、一人暮らしになるとアパート代、光熱費、食費でその3倍近く出ていく。これまで親に甘えていたんだなと反省しつつ、できる限り生活を切り詰めた。 幸い、会社には女性社員やパートのおばさんが多くて、一人暮らしを始めたと聞くと生活の知恵を色々教えてくれた。中には「よかったらお弁当作ってきましょうか」と言ってくれる女子社員もいて、単純な僕は一人暮らしも結構いいなと思うようになっていった。 あれから5年後、週末に実家へ来るようすぐるからメールが来た。当日行ってみると妹のゆみも呼ばれていた。リビングにはすぐる夫婦と4歳と2歳の子供たち、父さん、母さん、そして僕たち兄弟。総勢8人が顔を突き合わせた。 最初に義姉が口を開いた。 「私たちの子供も結構大きくなったでしょう。今はまだ私たち夫婦の部屋で寝てるんだけど、独立心を養うためには絶対個室が必要なのよね」 すぐるが言葉を継いだ。 「この家も結構年季が入ってきたし、部屋も少ない。だから今度リフォームすることにしたんだ」 僕とゆみは少し驚いたものの、別にいいんじゃないかと返した。するとすぐるが「賛成してくれるってことだな」と確認してきたので、僕もゆみも頷いた。すると義姉がニコニコしながら書類をテーブルに置いた。 「これ、リフォームの見積もり書。2人とも1/3ずつよろしくね」 「ええっ、僕たちも払うの?」 「嘘でしょ?私、お金なんかないよ」 2人同時に叫んでしまった。正直なところ僕は毎月1〜2万円程度貯金するのが精一杯で、貯金は100万円ちょい。ゆみも今度同性の相手と結婚することになって、その費用で貯金はほぼ0になったと言っていた。 それなのに、見積もり書の金額はなんと2000万円近く。3等分すると1人700万円近い負担になる。 「はあ?ここはお前たちの実家なんだぞ。払うのは当たり前だろうが」 すぐるが怒鳴った。母さんも「あんたたちの代わりにこの2人が私たちの面倒を見てくれてるんだよ。そのお礼として払うのは当然でしょうが」と僕たちを責めるような言い方をしてきた。 でも僕もゆみも断った。 「兄さん、悪いけどちょっと無理」 「私も払えない。てか払う気ない」 するとすぐるが大声で叫んだ。 「ゆみ、その態度は何だ?お前のせいで俺がどれだけ迷惑したと思ってんだ?金で詫びろ。この出来損ないが」 ゆみは高校生の頃、あまりに両親と兄から嫌がらせを受けていたため、ぐれて家に帰ってこなくなったことがある。2回ほど警察沙汰になったこともあって、我が家は一時近所から白い目で見られたのだ。でも、それは両親やすぐるのせいだ。ゆみもそう思っているから、何と言われようと強気だった。 「なんと言われようと私は払う気一切ないから。結婚でお金使っちゃうし」 すると今度は義姉が口を出してきた。 「あら、あの暴走族崩れと結婚するんだっけね。お似合いよ。でもね、この家の恥を晒すことになるんだから、そのお詫びってことで請求させてもらうわよ」 「はあ?そんなもん、元々あるわけないじゃん。ばっかじゃないの?」 そう言い捨てて、ゆみは出ていってしまった。 すると残された僕に集中攻撃が始まった。4歳の姪まで「おじちゃん、私、自分のお部屋欲しいな」なんてすり寄ってくる。でも本当に無理なんだ。 「貯金100万円くらいしかないし」 そう言うと、母さんが「何?あんた就職して10年近くになるのにそれしか持ってないの?すぐると大違いね」と言い、義姉も「やだ、悟る君ってどんな零細企業に勤めてるの?あはは、だから結婚できないのね」と笑った。そして見積もり書のコピーを僕に押し付け、「とにかく工事は来月からの予定だから、ちゃんと1/3請求させてもらうわよ」とニヤニヤしながら言った。 どうしよう。確かに実家が多少痛んできているのは分かる。でも僕と妹の部屋が空いているんだから、子供2人にはその部屋を当てればいいはず。それにこれからもずっと住む気なら、実際に住むすぐるや両親が払うのが筋だろう。すぐるは大企業勤務でかなり余裕のある生活をしているのが義姉や子供の服装からも分かる。それなのに僕やゆみにあんなに払わせようだなんて。 そんな思いを抱きながら色々考えているうちに、ふと思い出したことがある。会社の同僚が家を建て替えた時、30坪で2000万円くらいだったと言っていたのだ。実家も同じくらいだから、リフォームなら建て替えより安くなるはずじゃないか。よっぽど高級な材料を使うのか? そこで僕は妹のゆみに電話し、すぐ彼らのアパートに行った。実はゆみの夫となる元暴走族の男性は現在塗装職人をしているので、見積もり書を見れば何か分かるのではと思ったのだ。 「なんだよこりゃ。こんなのまともじゃねえよ」 ゆみの彼氏、つまり近い将来の義弟は見積もり書をざっと見ると吐き捨てるように言った。 「いや、やっぱりおかしいかな」 その迫力にビビりながら聞いてみると、 「おかしいなんてもんじゃねえ。大体なんだよ、この塗料。こんな値段とかありえねえよ」 良く分からないが、塗料には何種類もあって耐久年数にも違いがあり、見積もり書に書かれているのはその中で最も耐久性が低く、つまり価格も安いものなのに、価格が異常に高く設定されているという。 「多分これ、かなりぼったくってるぜ」 やっぱりそうだったんだ。ということは、すぐるたちは騙されている。僕は適正価格を彼らに知ってもらおうと、将来の義弟に再度見積もりをお願いすることにした。 2日後には新しい見積もり書が完成した。実際に現場調査をしたわけじゃないから多少のずれはあるだろうと言われたが、それでもすぐる兄たちの見積もり書の半額以下で、1000万円もいかなかった。 僕はその見積もり書を持って実家に行った。そしてすぐる兄たちがもらった見積もり書がかなり水増しされたものだと訴えた。 しかしすぐるも義姉も、僕の持ってきた見積もり書に見向きもしなかった。 「あのクズ夫の見積もりなんか信用できるとでも思うのか?」 「そうよ。そんな連中に工事なんかやらせたら、どんな出来になるか分かったもんじゃないわ」 ものすごい反発だ。僕はあの義弟は口は悪いけれど仕事に真摯なのを知っていたから、絶対信用できる見積もりだと必死に説得しようとした。すると義姉が嫌みっぽく言った。 「じゃあ、そっちの見積もり書の方でやってもらってもいいけど、その場合は全額悟る君が負担しなさいよ」 なんでそんな話になるんだと思ったが、すぐるも義姉に賛成した。 「いいな、それ。ゆみが1000万も払わないって言ってたから、お前には俺たちがもらった見積もり書の半額、1000万円請求するつもりだったんだ。悟るの見積もりだと、もっと安いんだろ?じゃあそっちで頼むわ。お前の払いでさ」 ニタニタしている。ここで負けたら自分が全て被ぶらされると思った僕は、勇気を出して言った。 「ごめん、でも出せないよ」 するとすぐるが怒鳴った。 … Read more

4 September 2026

システムの契約金を提示した瞬間、相手の社長は鼻で笑った。「高いな。ただの在庫管理システムにこんな金は払えん」と。それだけならまだ良かった。「金は出さんけど、俺が実験台になってやる」と言われた時、俺は笑いをこらえるのに必死だった。このシステムには、試験期間が終わると自動で動かなくなる仕掛けを仕込んであったからだ。期間が終了し、俺のスマホに彼からの怒鳴り声が届いた。「今すぐ動かせ!…

取引先の社長に契約金を提示した瞬間、彼は値段を見て鼻で笑った。 「高いな。こんなもんに金は払えんだろう」 上から目線の物言いに、俺は腹が立った。だが、この男はその後、もっととんでもないことを言い出す。 俺は村井、40歳。フリーのエンジニアだ。 派遣や正社員でいろんな企業を渡り歩いてきたが、一匹狼の俺にはフリーランスが合っていた。 地元で町工場を経営する町田さんとは、子供の頃からの付き合いだ。5つ年上で、ずっと世話になってきた兄貴分でもある。 職人気質で精密機器を作っていて、従業員からも慕われている。 俺がフリーランスになって初めて請けた仕事が、町田さんの工場のシステム構築だった。 「お前のおかげで作業が楽になったよ」と言われた時は、本当に嬉しかった。長年世話になっていたから、ようやく恩返しができた気がした。 だが世の中、エンジニアを軽く見てくる奴もいる。 今の取引先の社長、遠藤もその一人だ。 遠藤が経営するのはベンチャー企業。50代で、根性論で営業している。見るからにパワハラじみた発言を連発し、社員はみんな覇気がない。見ていて気の毒になるくらいだ。 遠藤に頼まれてシステムを構築しても、見た目が変わらないと文句を言われ、契約金を渋られ、しぶしぶ支払われたこともあった。以前のシステムでは、メンテナンスは別料金だと言っているのに、ついでにと無償で修理させられそうになった。 契約が切れたら二度と関わらないようにしよう、そう思っていた。 そんな時、遠藤から呼び出された。俺が開発した新しいシステムの評判を聞いたらしい。 俺はSNSで情報を発信し、そこから仕事を得ることもある。新しいシステムは特許も取得済みで、宣伝のためにSNSを活用していた。遠藤は意外にもSNSのチェックを怠らない。「最近の流行りはどうだ」などとよく言っている。ただネットリテラシーは低いようで、話を聞いているとヒヤヒヤすることもある。まあ、俺には関係ないが。 遠藤の会社で、開発したシステムを説明した。 これは簡単に言えば、利益の自動計算システムだ。 材料費、電気代、人件費が1円単位で変動しても、リアルタイムで「これ以下で売ると損をする」というラインを自動で算出する。在庫が減ったものは、一番安い仕入れ先に必要な分だけ自動で発注もできる。 ロスを減らすためのシステムだ。 最初に導入してくれたのは町田さんだった。 「これ、すごいな。資料を気にしなくていいから、他のことに時間を使える。今までよりロスも減ったよ」と喜んでくれた。 町田さんはいつも、俺が作ったシステムを試験導入してくれる。こちらも新しいシステムを安価で導入できる。お互いウィンウィンの関係だ。 町田さんは、俺が弟分という立場だろうと、エンジニアとして敬意を持って接してくれる。だから、一緒にやっていこうと思える。 遠藤とは正反対だった。 遠藤に説明を終え、契約金を提示すると、案の定「高い」と言われた。 俺を下に見ているし、なんなら自分の部下のように文句を言ってくる。 だが、特許を取った新しいシステムには興味があるようだ。 「とりあえず試しに入れてくれよ。使えるかどうか、俺が判断してやる」と、遠藤は胸を張った。 まあ、一度使ったら、よっぽどのことがない限り、このシステムを手放せなくなるだろう。 遠藤のことは気に入らないが、俺にも生活がある。契約してもらわなければ、ここに来た意味もない。 俺は提案した。 「では、半月だけお試し期間ということで。その後の継続利用は、こちらの契約金をいただきます」 遠藤は「気に入ったらな」と笑った。 数日後、様子を見に行くと、現場の社員からは「人為的なミスにもつながらない」「素晴らしい」と絶賛された。 だが遠藤は「こんなんで効率が上がるのかね」と首をかしげる。 その話を町田さんにすると、町田さんは苦笑した。 「そんなこと言ってるのは、現場を知らない奴だけだな」 「そうなんですけどね。なんせワンワン社長なんで」と、俺はため息をついた。 それから1週間ほどして、俺は遠藤の会社を訪ねた。 「試験導入したシステムの件ですが」 切り出すと、遠藤はすかさず言った。 「ああ、あれな。社員からの評判はいいみたいだ。だが、ただの在庫管理システムだろ。お前が提示してきた契約金を払うほどのもんじゃないな。まあ、新しいシステムの実験台になってやるってことで、金は出さんけど、使ってやるよ」 そう言って笑った。 「どういうことですか」 思わず聞き返した。金は出さないけど使う? 意味が分からなかった。 戸惑う俺とは正反対に、遠藤は堂々と言った。 「言葉のまんまの意味だ。ただの在庫管理システムには1円も出さん。だが、お前はこういうシステムでデータが欲しいんだろ。だったら、お前のためにうちの会社を使わせてやるって言ってるんだ」 つまり、試験期間が終わっても、金を払わずに使い続けると言っているのだ。 「それでは、無断で使用するということでしょうか」 正直すぎる聞き方になってしまった。 遠藤は鼻で笑った。 「だからそう言ってるだろ。お前のところとは別のシステムも契約してるんだ。知らない仲じゃないんだし、うちが協力してやるよ」 あくまで、遠藤の会社が俺のためにデータを提供してやるというスタンスらしい。 … Read more

4 September 2026

玄関を開けたら、義理の娘が知らない男を連れて立っていた。10年以上、一度も連絡を取っていなかったのに、突然現れたかと思えば、開口一番こう言った。「あなたは他人なんです。結婚式には招待しないし、子供が生まれても合わせませんので」なぜわざわざ家まで来て、そんなことを言うのか。数年後、その答えが郵便で届いた。そこには800万円の結婚式の請求書と、「お支払いお願いしますね」というメモが入っていた。…

結婚式の請求書が届いた。しかも、私が招待さえされていない結婚式の。宛名は間違いなく私で、差出人は義理の娘だった。 私は古川三重、62歳。今は一人暮らしだ。かつては夫がいた。誠と言い、私が35歳の時に結婚した。誠は15歳年上で、私との結婚は再婚だった。私は子供を産めない体だと言われていて、結婚さえも諦めていた。だが誠と出会い、彼に10歳の娘がいることを知った。そして「母親になってほしい」とプロポーズされた。 私は幸せだった。子供は無理でも、家族になれるんだと思った。 しかし、そう簡単にはいかなかった。娘のさやかは、私を決して母と認めなかった。反抗期も重なり、私のことを徹底的に嫌い、「おいおばさん」としか呼ばなかった。学校の参観日には参加させてもらえず、友達には「母親はいない」と言っていたらしい。私が作った料理には「ママの味と違う」と皿を投げつけられたこともあった。夫が注意すると、さやかは「お前が来たせいだ」と私に怒鳴り、自室にこもった。 それでも私は耐えた。夫に励まされながら、歩み寄ろうと努力し続けた。 一緒に暮らし始めて7年後、さやかは大学進学を機に家を出た。県外だった。私は正直、ほっとした。夫と二人きりの生活が始まり、穏やかな日々が戻ってきた。夫は早期退職し、キャンピングカーを買って一緒に日本中を旅した。本当に楽しかった。 しかし、穏やかな時間の中でも、さやかとの溝は深まる一方だった。 まず、さやかの従姉の結婚式があった。親族として私と夫、さやかで出席するはずだった。ところが前日、さやかが言い出した。 「なんで他人のあんたと参加しなきゃいけないのよ。あんたが参加するなら私は行かないから」 夫が説得したが、さやかの意思は固かった。結局、私が身を引くことにした。主役の従姉のためだ。私たちのために別の場を設けると言ってくれたが、私は内心、悲しさと悔しさでいっぱいだった。それでも、私が欠席すれば丸く収まるならと思い、高級旅館で一泊した。 ところが、さやかは私の心をさらに握りつぶしにきた。普段絶対にLINEを送ってこないさやかから、突然写真が送られてきたのだ。そこには、従姉の結婚式会場で、私が座るはずだった席に、夫の元妻が座っている光景があった。隣で夫は気まずそうな表情をしていた。さやかと元妻は満面の笑みだった。 夫に連絡すると、さやかが当日、突然元妻を連れてきたのだという。私の代わりに母親を座らせたかったのだろう。 「気にしてないわ」と私は夫に言ったが、内心は深く傷ついていた。 そして、もう一つ忘れられない出来事が起きた。夫が70歳で亡くなったのだ。心臓が弱かった夫は、治療の甲斐なくこの世を去った。 葬儀は妻である私が執り行うことになった。だが、さやかとはあのLINE以来、ブロックされ、連絡が取れなかった。13年以上、一度もやり取りをしていなかった。葬儀の日、私が参列席に座っていると、さやかが遅れて現れた。そして私を見るなり、参列者の前で言い放った。 「お父さんが亡くなったんだから、もうあんたには関係ないでしょ。出ていってよ」 さすがの私も反論した。しかしさやかは引かなかった。 「出ていかないなら、この式をぶち壊すけどいいの?お父さんが悲しむよ」 これはやりかねないと思った。この式は夫のためのものだ。争いごとをすれば夫が悲しむ。私は悔しさを抑え、式場を出た。 その後、遺産相続の話し合いで一度だけ会った。遺言書に従い、半分が私、残りをさやかが受け取ることになったが、さやかは納得しなかった。「他人のあんたは拒否しろ」と叫んだが、弁護士が同席していたため、何とか収まった。私は夫と住んでいた家を売り、遺産で小さな家を買った。家を売ったお金は、後から文句を言われないよう、さやかに渡した。 それから7年間、さやかとは一度も会っていないし、連絡もしていない。私も一人の時間を楽しみ、仕事も続けていたので、連絡を取ろうとは思わなかった。 ある日、従姉からさやかが結婚するらしいと聞いた。さやかももう37歳だ。あのさやかが家庭を持って大丈夫だろうか。かすかに残っていた親心がそう思わせたが、住所も知らないし、向こうも他人の私に会いたくないだろう。ご祝儀は渡さないことにした。 しかし、さやかが私の家にやって来たのだ。従姉の家で私の住所を見たらしい。玄関を開けると、さやかの隣に若い男性が立っていた。20代半ばぐらいの、派手なTシャツに短パンという格好だった。 「初めまして。新一です。俺、さやかさんと結婚するんです。あなたのことをさやかさんから聞いたんですけど」 私への印象が悪いに決まっている。 「なんか散々さやかさんの家族を困らせたみたいですね。その話を聞いて、さやかさんがかわいそうでいても立ってもいられなかったんですよね。で、ちゃんと話をしようと思って、こうして家まで来たんですよ」 新一はさやかに目をやった。さやかも私を意地悪そうな顔で見ている。 「なんかさやかさんの従姉の子までかすめて、家中に収めてるみたいですね。娘は無理だから、老後の面倒を代わりに見てもらおうとか思ってそうしてるんでしょう。本当、一人身の老人って迷惑ですよね。努力もしないで人にまとわりつくとか、恥ずかしいとも思わないんですか?」 私は呆然と彼の暴言を聞いていた。 「すみませんが、あなたが何を言いたいのか分かりません。本日は急な来訪ですので、話が長くなるようなら日を改めてもらえませんか?」 すると、さやかが口を挟んだ。 「日を改めてって、なんでまたあんたに会わなきゃいけないわけ?うざいんだけど」 新一も続けた。 「そういうところですよ、おばあさん。こうやって調子に乗られるのが困るんです。今回それが言いたくて来ました。まだ勘違いされているようですので、はっきり言いますよ。あなたは他人なんです。従姉のお姉さんは優しいから、あなたを親族として扱ってくれてるみたいですが、あなたの今の立場は人様の偽善の上に成り立っているんですよ。俺たちが結婚したからって、またさやかと接触しようとか思わないでくださいね。そんなこと1mmでも思っていたらキモいので。はっきり言いますが、俺たちはあなたとお付き合いする気は一切ないんで、結婚式には招待しないし、子供が生まれても合わせませんので。ああ、でも俺たちもそこまで鬼じゃないので、あなたが大人の対応をしてくれたら、年賀状ぐらいは送ってあげますよ。俺が言ってる意味分かりますか?」 要するに、縁を切ると牽制しに来たのだろう。 「分かりました。そこまで言うなら縁を切りましょう。元々、結ぶような縁もないですけど」 「分かってくれたようで良かったです。じゃ、そういうことなので」 さやかと新一は帰って行った。 まさか、そんなことを伝えるためだけに家まで来たのか。言われなくても、もう何年も連絡を取っていないし、結婚式に呼ばれると思ってもいなかった。さやかもそのくらい分かっているはずなのに、なぜ来たのか。その疑問は、すぐに解けた。 数日後、我が家に一通の封筒が届いた。中身は結婚式の請求書だった。金額は800万円。振り込み先も書かれていて、メモ用紙には「お支払いお願いしますね」と雑な字で書かれていた。電話番号もあった。かけてみると、出たのは新一だった。 「もしもし。ああ、お母さんですか?俺からの郵便、届きました?」 「届いたけど、この請求書は一体何?」 「あれ?日本語読めませんか?結婚式の請求書ですよ」 「それは分かるけど、なんでそれが私のところに?」 「全部言わないと分からないんですか?大人の対応をお願いしますよ」 一方的に電話を切られた。 どうやら新一の言っていた「大人の対応」とは、私が結婚式の費用を払うことらしい。何が馬鹿らしいのか。私は請求書とメモを破り捨て、新一の番号と電話の履歴を消去した。一週間後、さやかと新一から何度も着信があったが、一度も出なかった。あまりにしつこいので、携帯を解約して番号を新しくした。 それから2年後のことだ。庭の手入れをしていると、別人のようにやつれたさやかが現れた。まだ40歳になるはずがないのに、見た目は50歳ぐらいに見えた。 「突然何?」 するとさやかは、顔をくしゃくしゃにして膝から崩れ落ちた。 「こんな目で私を見ないでよ。お母さん」 今、何と言った?「お母さん」?今まで一度も言ったことがないのに。 「人違いじゃない?」 「なんでよ。私のお母さんでしょ」とさやかが叫んだ。 何だか怪しいが、とりあえず要件を聞くことにした。 … Read more

4 September 2026

取引先の部長が工場に来るなり、「事前事業は廃止。契約終了だ」と言い放った。そして、契約を続けたいなら「お前の嫁を一晩貸せ」とまで言ってきた。その瞬間、何かが頭の中でプツリと切れた。でも、俺は静かにこう言った——「契約は終了だ。あんたの会社とはこれっきりだ」。その後、彼は焦って納品の再開を求めてきた。でも、もう遅い。俺が彼に言い放った言葉とは…?…

取引先の部長、中村が工場に来て、いきなりこう言い放った。 「事前事業は廃止。契約終了だ。」 俺は本田、38歳。祖父の代から続く町工場の3代目社長だ。1年前に父が急逝し、急遽後を継いだ。高校を卒業してからずっとこの工場で働いてきたから、父との思い出はほとんどが仕事に関するものだ。 20歳の頃、父と二人で夜遅くまで油まみれになりながら新技術の開発に打ち込んだ日のことは、今でも鮮明に覚えている。 「これはうちにしかできない技術だ。それを息子のお前と一緒に開発できるなんて、父親としても工場の社長としてもこんなに嬉しいことはない」 疲れた顔をしながらも、父は楽しそうに笑っていた。 「いいか?技術と信用だけは絶対に金では売るな」 不器用な人だったが、それが口癖だった。工場と家族への愛情は誰よりも強い人だった。そんな父が突然いなくなり、俺も社員たちも悲しみに暮れた。それでも今はみんなで一丸となって父の残した工場を守っている。 俺の代になってからは営業活動にも力を入れ始めた。父は対人関係が不器用で営業が苦手だったらしい。腕のいい職人は揃っているのに、売上はずっと伸びず、社屋を新しくする余裕すらなかった。祖父の代からずっと同じ社屋で、見た目はかなりボロボロだ。 新規の取引先を増やし、少しずつでも売上を伸ばしていく。俺が40歳になるまでにこの工場を新しくしたい。そんな目標を胸に、今日も汗を流していた。ちなみにこの目標にはもう一つ理由がある。黒髪の妻に、いつか胸を張って新しい工場だと案内してやりたいのだ。 ある日のことだった。 「どうも本田さん。相変わらず狭い工場だな」 失礼なことを言いながら工場に現れたのは、取引先部長の中村さんだ。2年ほど前からうちの担当になった人で、業界大手の会社に務めていることもあってか、うちに仕事を与えてやっていると思い込んでいる節がある。常に上から目線で接してくるので、俺も父も対応には手を焼いていた。 「先代が亡くなってから1年くらい経つけど、経営には慣れたか?」 「まあ、ぼちぼちですね」 笑顔を作って返すと、中村さんもヘラヘラと笑いながら続けた。 「まあ、こんな小さな工場なら経営も楽だろうな。いいなあ、羨ましいよ。うちの会社は大きいから部長の俺も毎日忙しくてね」 「そうですか」 俺は笑顔を顔に貼り付けたまま、当たり障りのない返答をする。中村さんはいい大学を出ている。だが学歴と人柄は決してイコールではないのだと、この人のおかげで学んだ。 あの人は第一志望の会社に落ちた過去があるらしい。その失敗から目を背けて、格下だと思った相手にマウントを取ることでプライドを保っているんだろうな。生前、父が中村さんをそう評していたのを思い出す。 「ところでこの前の納品物なんだけどさ、一部に傷があったぞ。ほらこれ」 そう言いながら中村さんがスマホの写真を見せてくる。よく見ると確かに部品に小さな傷がついている。 「品質管理の担当によるとメイン製品の製造には問題ないとのことだが、納品前にちゃんとチェックしてるのか?」 「すみません。以後気をつけます」 陰口でネチネチと攻めてくる中村さんにはもう慣れてしまった。この人の言うことは否定せず、うまく受け流すのが最善だ。 一通り嫌味を言って満足したのか、中村さんが応接の席から立ち上がる。工場の外まで見送るために並んで歩いていると、廊下の角から女性が顔を覗かせた。 「こんなところにいたのね。あなた、忘れ物よ」 「ああ、すまない」 俺の妻だ。書類の入った封筒を差し出してくる。数多くのライバルを蹴散らして結婚した俺の自慢の妻だ。妻は中村さんを見ると笑顔を浮かべて頭を下げた。 「それじゃあ、もう戻るわね」 妻はうちとは別の会社で営業の仕事をしていて、外回りのついでに忘れ物を届けてくれたらしい。妻を見送った後、隣の中村さんがやけに静かなことに気づいた。 「おい、あの美人はお前の嫁か?」 「ええ、そうですが」 「貧乏工場の嫁にはもったいないな。なあ、嫁に接待させろよ」 下品な笑みを浮かべる中村さんを見て、妻に下心を抱いているのが丸わかりだった。 「申し訳ありませんが、それは無理です。妻はうちの社員ではありませんし、何より我が社は女性社員にそういうことをさせていませんので」 俺は今まで中村さんの頼みをはっきり断ったことがなかった。相手は大切な取引先だったからだ。だが今回だけは違う。 「別にいいだろ。減るもんじゃないし」 「お断りさせていただきます」 しつこく食い下がる中村さんを、俺は一切の迷いなく拒絶する。すると中村さんの顔が徐々に怒りで歪んでいった。 「貧乏工場のくせに生意気だぞ」 「工場の規模は関係ありません」 「誰に向かって生意気な口を聞いてるんだ?」 自分の思い通りにならないことに怒りを爆発させた後、中村さんはこう言い捨てた。 「後悔させてやる。覚えてろよ」 乱暴な足音を立てながら中村さんは工場を後にした。この日から中村さんの嫌がらせが始まった。 発注数を理由なく減らされた上、支払いまで延長してきたのだ。これによりうちの工場は金銭的な負担を強いられることになった。正直、この嫌がらせはかなり効果的だった。それでも社員たちに迷惑をかけるわけにはいかない。なんとかやりくりして給料に影響が出ないようにしたが、経営そのものは大きな打撃を受けていた。 中村さんの嫌がらせはこれだけにとどまらなかった。 「オタクの工場、大丈夫ですか?」 ある日、別の取引先の担当者がやってきた際、いきなりそう聞かれた。 「どういう意味ですか?」 尋ねると、担当者は言いづらそうにしながらも事情を教えてくれた。 「中村さんのところと、うまくいってないって噂を聞いたんですよ」 その担当者によると、俺が一方的に中村さんの会社へ文句を言い、うちが有利になるよう取引内容を無理やり変えさせたという噂が業界に流れているらしい。 「そんなのありえませんよ。相手は業界大手ですよ。うちみたいな小さな工場がそんな真似できるはずがありません」 … Read more

4 September 2026

あの日、幼稚園の教室で、四年ぶりに元妻と向き合った。 彼女の連れ子が、俺の息子を一方的に殴った、その現場でだ。 「あの子を手放して正解だったわ。だってやっぱり男は、ああやって暴力的なのよ」と彼女は笑った。俺の目の前で、自分の産んだ子の顔も覚えていない元妻は、そんなことを言い放った。 そして「あなたみたいなダメ男と別れて、今の暮らしを手に入れて大満足なのよ」と、高級車の隣で軽トラを嘲笑した。…

幼稚園からの電話が鳴ったのは、幼馴染みのペンキ屋でお茶をいただいている最中だった。こ太が友達と喧嘩をしたという。俺はすぐに車を借りて幼稚園へと向かった。職員室で先生に頭を下げ、保険室にいたこ太の顔と腕に赤い引っかき傷を見た。少し痛いが、大したことはないという。俺は一安心しつつ、喧嘩の相手の親が待つ教室へと通された。 教室の扉が開くなり、長い髪を振り乱した女性が俺に向かって怒鳴ってきた。「ちょっと、オタクのお子さんが!」――その顔を見た瞬間、俺は息を飲んだ。れ子だった。元妻だ。向こうも同じようで、詰め寄ろうとした足を止め、「どうして君がここに?」と口にした。俺が地元に戻ったことを告げると、れ子は「ああ、そういえばあなたの地元だったわね」と、どこか馬鹿にしたような笑みを浮かべた。 俺とれ子の関係に気づいた先生が、れ子の娘を退室させた。涼しげだが意思の強そうな目をした女の子だった。その目を見て、俺は結婚生活を思い出した。れ子は結婚直後から「子供は絶対女の子」と口癖のように言っていた。3姉妹で育ち、母親との絆が特別強かったれ子にとって、理想の家庭像の中にいる子供は娘だった。妊娠が判明し、性別が分かるようになった頃、れ子は真っ先にそれを確認していた。「ありえない。海分けだって完璧だった」と怒り狂った。お腹の子が男だと分かると、妊娠までの自分の努力を踏みにじられたと、俺とお腹のこ太に怒りの矛先を向けた。こ太が生まれてからもそれは変わらず、出産直後から男の子を産んだ悲しみに浸っていた。ひたすら泣き、「息子はいらない」と抱っこすら拒否した。名付けの時も女の子としか思えないキラキラネームをつけようとした。本格的に育児が始まっても無関心で、こ太が泣いてもほったらかしにした。「男の子は臭い」と言った時には、俺と大喧嘩になった。 こ太が生まれて半年で、俺たちの結婚は崩壊した。れ子はこ太は俺にくれてやると言い、家を飛び出してそれっきりだった。 そしてあれから4年、こうして驚きの再開を果たしたのだが、それ以上に愕然としたことがある。れ子がこ太をすっかり忘れていたことだ。れ子は俺が来る前にこ太の姿を見ていたようだが、その子が自分が産んだ子供だと気づいていなかった。「あの子を手放して正解だったわ。だってやっぱり男はああやって暴力的なのよ」と、れ子はこ太を「あの子」と呼び、軽蔑するような目を見せた。「うちの子を傷つけて、のこのこと勝って気になってどうしてくれるのよ。分かってる?一生の傷を追わせたようなものなのよ」と攻め立てるが、その言文には疑問があった。俺がさっき確認したこ太は傷だらけだ。しかしれ子の娘に傷は一つもなかった。それどころか、こ太にはあった涙の後すらなく、れ子と同じく済ました顔で俺を見ていた。先生も、こ太はれ子の娘に一方的に攻撃され、防戦すらままならなかったと聞いている。俺がそのことを指摘すると、れ子は「あのね、男が全て悪いのよ」と主張した。「女性を傷つけようとする、喧嘩しようとするだけで男が悪いのよ」と。 「変わらないんだな、昔と」と俺は漏らしてしまった。結婚していた頃、れ子は何かあろうがなかろうが全てを俺のせいだと言っていた。自分の機嫌が悪いのも、思い通りにならないのも、男の俺に原因があると、いつもそう言って怒っていたのだ。 「これは男だ女だって話じゃない。子供同士の喧嘩だよ」と俺が言うと、れ子は「はあ?子供だろうがあの子は男。うちの子は大事にされるべき女の子、女性なのよ」と鼻で笑った。俺はヒートアップしているれ子を刺激しないよう、言葉を選んだ。れ子とこれ以上揉めたくない。そんなことをしている暇があればこ太の心配をしてやりたい。何もかもうまく納めてひまず帰りたかった。 「俺と君がこうして言い合っても大して意味のあることじゃないなあ。子供同士で謝って終わりにしてみたらどうだろう」と俺は提案した。「こ太の怪我は見過ごせないが、それでも最初は子供同士の揉め事だ。こ太だって君の娘だって、この先も友達との喧嘩は経験するだろうさ。今日はそれを自分で解決する機会にしたらいいんじゃないか」と。俺はどこかで、れ子も母親なのだから、子供にどう寄り添えばいいのか分かっているのではないかと思っていた。しかしれ子は「冗談じゃないわよ、お断りします」ときっぱり断った。「あの子に共容がないのは、あなたに育てられてるからじゃない?男が1人で雑な育て方をしてるからでしょ。地元に帰ってどうせ貧しい暮らしなんじゃないの?」と嘲笑した。 「おい、何を言ってるんだよ」と俺が言い返すと、れ子は「私は離婚して良かったと思ってるわよ」と勝ち誇った。「あなたみたいなダメ男と別れて、今の暮らしを手に入れて大満足なのよ」と。れ子は今、某有名建設会社の社長夫人の肩書きを手に入れているそうだ。俺との離婚後に再婚した相手が建設会社の社長だったのだという。「今の主人もね、バなのよ。娘は彼との全の子けど、全然構わないわ」と。「大婚であんなに可愛くて美人の娘の母親にもなれたから」と。 れ子の気持ちは俺には分からなかった。元から俺とれ子の価値観には天と地ほどの差があったのだ。付き合って結婚する時には、恋は盲目と言われるように、それを無視してしまっていた。今更ながらそれを痛感し、何も言えなくなった。 「私これで失礼しますわ」と、黙り込んだ俺と所在にしていた先生にれ子は高圧的に言いつけた。「謝罪は後でしっかりと話し合いをさせていただきます」と。そしてヒールの音を鳴らして教室を出ていく。俺と先生にれ子の跡を追う気力はなかった。 俺は保険室にこ太を迎えに行き、その手を引いて幼稚園を出た。外に出ると日が暮れていた。駐車場に向かうと、れ子と娘が車に乗り込もうとしていた。そこで俺は、れ子の車の隣に軽トラを止めていたことを知った。なんとも不幸な偶然だ。 「何なの、その車?」れ子が俺の乗ってきた軽トラを見て笑う。「夫婦だった頃は会社に乗ってたのにね」としみじみとつぶやく。「落ちぶれたのね」「うん、何だって?」と、れ子は楽しそうに笑いながら、自分が作った俺の物語を語り始める。「そんな汚い軽トラ何よ?あなた今、あれなの?本当に貧乏なんじゃない?仕事はそうね、あれかしら?ど方とか言うの?」と。 離婚後の俺が生活に苦労している、シングルファーザーになり仕事がままならず失業したに違いない、地元に戻ったのは親の脛をかじるため、生きるだけで必死なんでしょ、大変よね、貧乏って――れ子はつくづく自分にとって都合の良い話だけを信じているようだった。別れた元夫は人生に苦しみ絶望を抱えている――れ子にとっては、今の俺はそうあって欲しい存在なのだろう。それがれ子の妄想をたましくさせて、俺を見下して高笑いをさせている。 子供たちの目があるというのに、はた迷惑な話だ。 俺はれ子に対して強い嫌悪を抱いたが、声を荒げる代わりに、自然な笑顔で応じた。「まあ、それは大変だよ」と。「だから、君のご主人から持ち込まれた50億の相談は、取りやめにさせてもらうよ」と。 パッと聞いただけのれ子には何のことだか分からなかったのだろう。軽減そうに首をかしげるれ子に、俺は続けていった。「今のご主人の会社と、駅前の再開発地域にオフィスビルと多目的ホールを建設する計画を合同で進めることになってるんだけどね。そのプロジェクトを事態させてもらうよ」と。 俺はれ子の現在の夫が社長を務める会社の名前を出し、合同で進めようとしている事業について触れるが、公表されている部分までしか明かさない。れ子をこらしめるのならばもう少し細かく踏み込んでもいいと思ったが、踏みとどまった。「ニュースでも出てるから、君も見てるんじゃないかな」と。 れ子は「それは知ってるけど、あなた頭大丈夫?なんでそんなこと心配するの?あなた自分がプロジェクトから降りるだなんて、どうかしてるでしょう?今はど方なんでしょ?」と、いつまでもニヤニヤしたまま信じる気はないらしい。「あのね、妄想で勝手に決めつけないでくれよ」と俺はため息混じりに言った。 俺はずっと不動産関連の会社に務めていて、離婚の影響もなく出世を重ねてきた。離婚は俺にとっては追い風になった。私生活でのトラブルと悩みから解放されたおかげで、こ太と向き合い仕事にも集中できたからだ。結果を残して成績を上げ、企画開発系部署で部長の座を手にした。 「俺は今、君のご主人の会社とのプロジェクトの責任者を務めている」と告げた。「計画をどうするのか、こちら側で決断を下していい立場にいるんだよ」と。 「そんなの嘘よ」とれ子は叫んだ。「嘘じゃない」と俺は返した。「名刺を見るか?それとも自分で俺の勤務め先に電話して所材を確認したらどうだ?今日は休みだと言われるはずだよ」と。れ子は眉間にしわを寄せ、中途半端に口を開いた何とも言えない表情で反響に陥った。 「じゃあ、そうしたらこの軽トラは何なのよ?」とれ子が指さして叫ぶ「この車は幼馴染みのペンキ屋から借りたんだ」と俺は答えた。「家に車を取りに行く時間がもったいなくてね」「だ、騙したの?」「君を騙して何になる?」と俺はあきれたように言った。「あのね、悪いけど俺はもう行くよ」と。 「待ちなさいよ!」と叫ぶれ子を駐車場に残し、俺はこ太を連れてペンキ屋を目指した。幼馴染みに礼を言い車を返し、帰宅してからは会社に連絡を入れた。れ子に告げたように、すぐにれ子の夫の会社との合同プロジェクトから手を引くように部下に指示を出す。 そして翌日、俺は出社早々自分が出した指示の対応に追われることになった。 「早川さん、本当に申し訳ありませんでした」と、れ子の現在の夫で建設会社社長の岸本さんが、朝一番で俺への面会を求めて来ていた。王設で俺と向き合った岸本社長は謝罪の言葉を口にし、困惑した様子を見せた。「妻から話を聞き、こうしてお伺いした次第です」と。俺の勤務先との合同プロジェクトが挫ける理由が、前日の妻とその夫との間に起きた出来事に起因していると把握しているようだ。 「申し訳ありません」と岸本社長は言いづらそうに続けた。「妻はどうにも直型の性格で、あの、早川さんもご存知かもしれませんんが」と。俺は思わず「そうですね」と言いそうになるが、払いでごまかした。 「何卒ぞプロジェクトはこのまま進めさせていただきたい」と岸本社長は頭を下げた。「どうか妻とのことは許していただけるとは思いませんが、プロジェクトは分けてお考えいただきたいと考えております」と。 「謝罪の言葉は理解いたします」と俺は冷静に答えた。「ですがプロジェクトに関しては、決定を覆すことはありません」と。私は何も前日のトラブルで今回の決断を下したわけではないと、勤めて冷静にゆっくりと告げた。 しかし俺の返答に、岸本社長の表情が一変した。それまでのしらしさをかなぐり捨て、どこかれ子に似たヒステリックな目元を見せる。「ありえないでしょう!そんなこと、どうかしてる!」と俺の目を見据え、唸るように絞り出した。「早川さん、あなたで判断を下したでしょう?霊子と元妻と揉めた腹で仕事を投げ出したんじゃないんですか?」と。 「情けないと思わないんですか?プライベートを仕事に持ち込んで」と岸本社長の唸り声が路方に変わる。あまりの変わりように俺は一瞬立ち尽くした。しかし前日のれ子の姿が社長に重なり、似たもの夫婦だと社長を眺める。 「落ち着いてください、岸本社長」と俺は最後の切り札を切ることにした。「私は何も前日のトラブルで今回の決断を下したわけではありません」と。「この決断は、数日前には考えていたんですよ」と。 「はい?何です?どういうことですか?」と岸本社長は目を剥く。 「弊社のリサーチ部門が、音社に関する調査報告を行いました」と俺は静かに告げた。「その結果を踏まえ、私はプロジェクトからの事態を決断しています」と。 「岸本社長、あなたの会社では、消防法の法令違反が日常化しているそうですね」と俺は言及した。 「おい、言いがかりだ!」と岸本社長は怒鳴る。 「それはそうでしょうか」と俺は続けた。「本社が建築を受け負ったビルのいくつかでは、価設備や使用した顕在の一部に首があると告発が上がっていると伺いましたが」と。 岸本社長の会社はここ数年で急成長していたが、その裏には見過ごしてはならない大きな誤ちが隠されている。消防法違反は、女の口で建築現場や工事現場での自己報告をもみ消しているとの噂もあった。その他には決算の一部を紛している、そんな疑惑も突きまとっていた。 「以前からそういった話は耳にしていましたし、リサーチ部分もそういった疑惑を否定するような報告をしていないですから、私は慎重に判断をしたまでです」と俺は言った。「本社長の会社とのプロジェクトは、まだ正式契約には至っていない。現状では契約に合意する意思を表明しただけで、契約のサインはしていない」と。 「早川さん、あなたは町の噂に左右されようと言うんですか?」と岸本社長は感情的になり俺を責めた。 「それはどうなんでしょうね」と俺は冷静に返した。「噂だとおっしゃるのならば、弊社部門ではなく、しるべき調査会社に入っていただくというのはいかがでしょうか?その方がお互いにわかまりを抱えずに住む」と。 「それは受け入れられませんね!そんなことは私と私の会社への侮辱に他ならない」と岸本社長は鼻息荒くけ散らした。 「でしたら、今回のプロジェクトへの返答はそのままで」と俺は静かに告げた。「弊社としては、リスクマネージメントの観点から契約の試決は見送ります」と。 そのまま王設を出て、部下に岸本社長を退出させるよう頼むと、岸本社長は最後の挨拶を求めたようだが、部下が丁寧に断ってくれた。 この騒動から3ヶ月後、岸本社長は社長の座を失った。取引先からの告発と内部告発をきっかけに、全ての疑惑が世間にさらされて暴れたのだ。消防法違反はもちろん、建設したビルの耐震性能の数値偽装まで明らかになったとして、本丸とも言える噴職決算も事実だったと判明した。真っ黒以上の漆国とニュースで話題にされ、岸本社長の会社は厳しい目を向けられた。岸本社長は全ての責任を取り辞任し、役員たちも次々に辞任を発表した。今や会社の行方が危ぶまれている。 岸本社長が転落して、れ子もその煽りを受けた。当たり前のことだが、社長夫人の肩書きが外れる。れだけではなく、幼稚園の友ネットワーク中でも悪評が広まった。こ太とれ子の娘の喧嘩騒動の顛末がどこからか漏れ伝わり、れ子の過去や素情も芋ずるに知られたらしい。「自分の産んだこの顔も忘れる母親」と、れ子は友の場の中で後ろ指を刺されるようになった。最近ではれ子が岸本社長と離婚したと聞いている。いつしかれ子が幼稚園から姿を消したと思っていたが、それは離婚のせいだったのだ。 れ子の娘だった女の子は、今は見知らぬ年配女性が送り迎えをしている。「パパ、行きます!」と、こ太が笑顔で俺の手を引く。俺とこ太の暮らしは平穏無事に続いている。 また波風が立つのはまっぴらごめんだが、そんな時が来たら、俺はまた完全と立ち向かうと決めている。シングルファーザーになった時の密かな誓い――こ太を守り、立派に育てあげる、そのために仕事に励み、生きていこうと、俺は決意を新たにした。

4 September 2026